それは眠りを醒ます声
小さくあくびを噛み殺し、据わりの良い場所を求めて頭をうごめかす。深く意識しての行動ではなかったが、すぐさまその先の欲求を見抜いた娘は肩を心持ち強めに叩き、もう一度「部屋に戻りましょう」と繰り返した。
「これ以上体を冷やしては、熱が上がってしまいます。戻って、きちんとお休みください」
常ならばこのまま軽口の応酬でああだこうだと言い合うのだが、もはや娘に返答を待つつもりはなかったらしい。言い終えるや、立ち上がるのを促すように知盛の腕を引き、自らも腰を上げる。しかし、知盛には促されるまま動くだけの気力もなければ体力も残されていない。
床に落ちれば痛いと、それだけはわかっていたため手元にあった娘の衣を掴みはしたが、力が入らない。支えを失ってただ崩れ落ちる知盛は、慌てたように肩に回された細腕によって、何とか床との衝突を免れる。
感覚が閉ざされていく向こうで、呼ぶ声を聞いていた。その声こそが自分が世界に存在する証に思えて、薄れゆく意識の中で知盛はそっと指を伸ばす。
「行く、な……よ」
「人を呼んでくるだけです。お放しください」
「いやだ」
声が遠ざかることが不快だった。手探りで衣の裾を引き止め、引き寄せた声の言い分は無視。そんなこと、聞き入れることはできない。戻れたのだと、思う一方で夢ではないかとの疑念が胸を噛む。次の目覚めの向こうにおいて娘がいる保証はない。ならば手放せるはずがない。まだ、完全に確信してはいないのだ。
男女の差、武人と小娘、育ってきた環境の違い。常ならば振りほどくことなど物理的に不可能な知盛の腕を、しかし今の娘はいともたやすくかいくぐれるだろう。篭めても篭めても、思うように力が入らない。
ままならない己が体に苛立つ知盛の戒めにならない拘束を、結局、娘は振り払わなかった。多分に呆れを含む溜め息をこぼし、諦めたように腰を落として、床に落ちていた知盛の頭を膝に抱く。
「わかりました。では、このままお眠りください。その代わり、後からどなたかに運んでいただきますけれど、文句はなしですからね?」
言いながらもぞもぞと動き、やがてふわりと菊花の気配が降ってくる。衣を一枚かけられたのだと、悟った頃にはもはや指先を動かすゆとりもない。
宥めるように、あやすように。再び肩に感じるぬくもりが、穏やかに拍を刻む。仄かに感じる娘の鼓動と、それに沿うような手の動き。流されるままに呼吸を合わせ、知盛はあたたかな闇へと堕ちていく。
そういえば、無感動なまどろみは多くとも、心穏やかな眠りは久方ぶりのことだと。最後の思考は、知盛の意識を常よりも一層深い眠りへといざなう道標に他ならなかった。
改めて目を覚ました知盛に告げられたのは、あの夜、娘の腕の中で失神してから四日もの間、ただの一度も目を覚まさずに昏睡し続けたという屈辱的な事実だった。何より、それを告げたのが弟だったということが気に喰わない。その肩にもたれて憔悴もあらわに眠る娘を見せつけられれば、なおのこと。
「……そこで、何をしている?」
「何、と申されましても。見たままにございますが?」
「………閨事ならば、場所を考えろ」
「無粋なことを申されますな、兄上。かくも疲れておいでなのです。ゆるりと眠らせてさしあげるのが、気遣いというものでございましょう」
けろりと返されるのが言葉遊びの類であることは明白だったが、今の知盛にそれを楽しむだけのゆとりはない。嫌味を嫌味と捉えず、皮肉には更なる毒をもって返してくる弟に素直に根負けし、うんざりと息を吐き出しながら告げるのは警告にも似た勧告。
「だったら、さっさと部屋に帰せ」
首を巡らせ、口を動かすことさえ億劫で仕方ない。視線だけで睨め上げて呻くように言葉を絞り出せば、何が楽しいのか、肩を揺らさぬよう気を配りながら重衡は器用に笑う。
「もっと素直におなりになっても、罰はあたりませんでしょうに」
あからさまに含みをもたせた物言いは、険の混じる鋭い視線をものともしない軽やかさ。見かけは鏡映しなれど、性情は正反対と称されることの多いこの弟が、実は知盛の性情を最も熟知し、誰よりも的確に弱点をついて対峙してくることを知っている者は、一体いかほどいるだろう。
「ご心配はごもっともでございますが、どうぞ、胡蝶殿のお心もおくみくださいませ」
わからぬ兄上ではございますまい。言って重衡が指先を這わせたのは、もたれかかる娘の下瞼。青黒くくっきり刻まれた隈は、その肌の白さゆえに一層痛々しく映える。
何気ない、それは慈愛と気遣いに満ちた所作だったが、それさえ知盛は気に喰わない。苛々と眉間に皺を寄せ、睨む眼光の鋭さを増させれば、心底呆れ果てた溜め息が返される。
「まこと、そのお気持ちを素直にお伝えになられればよろしいでしょうに……。胡蝶殿は、それこそ寝る間も惜しんで、ずっと兄上のおそばについておいでだったのですよ?」
「……わかって、いるさ」
肺腑に溜まりこんだ空気をゆるゆると吐き出し、言葉を載せてから知盛は視界を闇に閉ざす。指摘はいちいちもっともで、自分が何年もの体感時間を経て自覚し、ものにした感情を、この弟にはとっくに見抜かれていたらしいことこそが一番の苛立ちの原因。諭す言葉は正しいのだが、その正しさに素直に頷き従うには、己はあまりにも自尊心が高すぎる。
Fin.