それは眠りを醒ます声
意識が浮上したのは、呼ばい、肩を揺さぶられる感触を知ったからだった。声をかけ、触れられるほどに近づかれるまで気づけないのはこの目覚めだからこそ。爪の先、髪の一筋にまで染みこんでいそうな疲労を緩慢に振り払い、ゆるりと瞼を持ち上げる。
「知盛殿? お目覚めになられました?」
耳朶を打つのはやわらかな音。視界に飛び込むのは、薄紅色に覆いつくされた地面。花冷えの夜風は染み透るようだが、それこそが透徹と美しく、持ち上げた視界を埋める花弁の嵐の向こうには、十六夜の朧月が凛と冴える。
「寝ぼけていらっしゃるのですか? お眠りになるなら、お部屋にお戻りください」
口調は丁寧ながらもどこか棘と呆れを含んだそれは、周囲に気心知れた相手しかいないときに限られる彼女の素顔。はじめの頃はこの程度の言葉遣いさえ危うく、実は娘が欲しくて仕方なかったという古参の女房がつきっきりになって徹底的に仕込んだ成果。自分の前ではいまさら取り繕うこともないと言っているのに、よほど感情が高ぶらない限り基本的に言葉遣いを崩さないのは、意地か見栄か、意趣返しか。
もっとも、言葉の選び方と運用にはいまだに不思議なものが混じるから、時折小首を傾げることがある。例えば、不満と心配をほんの少しずつ溶かして、けれども常と変わらず静かな声で言の葉を紡ぎながら肩を揺すりつづける今がそう。
「このような場所で寝ていらしたら、お風邪を召します。褥をご用意しますから、お部屋にお戻りください」
「……風は、吹くもの、だろう?」
「吹く風ではなくて、ええと……熱が出たり、喉をいためる病のことです」
起きているなら、いいから立ってください。戻りますよ、と。
徐々に素顔を曝す娘の言葉を聞き流しながら、なるほど咳気を得ると言いたかったのかとぼんやり納得する。
確かに、指摘はもっともだ。春とはいえ夜風は冷たく、酒のにおいが染み付いた体はしかし、もたれる柱と同じほどの温度。蒲柳の質ともあれば、なおのこと、娘の言い分は理に適っている。
月は朧。ざわめきは花吹雪。取り巻く世界はすべてにおいて現実味が薄く、文字通り、夢を見ているような心地になる。はたりはたりと瞬きを繰り返し、そしてようやく知盛は視線を巡らせる。恐れるように、確かめるように、焦がれるように。見やった先には、あまりにも懐かしい、当たり前と感じていた見慣れた顔立ち。
「――知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか……か」
乾き、掠れた声はごくごく小さなものだったが、夜のしじまを縫うには十分だった。唐突に朗じられた詩に目を見開き、しかしすぐに澄ました表情に戻って娘は切り返す。
「俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり、です」
声は幽かに笑いを含んでいた。こういう、言の葉の裏に思惑を滲ませ、ゆらりゆらりと相手の洞察力を試すような会話を好むのは二人の共通項。仕掛けるのは大概知盛の側だから、今もまた、常と同じく腕試しをされているととったのだろう。押し殺しながらもあからさまに、次はどういう言葉を投げかけてくるのかと、好奇心と対抗心に輝く瞳が好ましい。
ああ、と。唇をすり抜ける溜め息を、止めることは愚か、隠すことさえできなかった。そんな気持ちは微塵も沸き起こらなかった。
毎度、あの“最後の戦”の次の目覚めには、疲労と怪我からくる発熱のため、休息を必要としたのだ。今回だとて例外ではない。それでも、しきりに誘惑の甘言を囁く睡魔より、目の前の夢想が幻なのか現実なのかを確かめたいという欲求の方が強かった。本当は、指先ひとつ動かすことさえ億劫でたまらない。けれどもゆったりと、腕を持ち上げ、指を伸ばし、不思議そうに小首を傾げる娘の頬にそっと触れる。
指先に、確かな触感と体温を知る。ごく傍近くに端座する彼女から仄かに漂うのは菊花の香。自分は使わないからと貰い物を譲った際、ついでにそれが破邪の効能を持つと教えた途端、寝具以外はふらふらと気紛れに焚き染める香を変えていた娘が、そのひとつに固執するようになった。人智の及ばぬ力が身近な世界に生きる以上、守りの祈りは欠かしたくないのだとはにかんでいた。
「酔っておいでなのですか? それとも、熱を? ご気分はいかがです?」
確かめるように辿り、なぞり、しかし今にも落ちてしまいそうな武骨な手をそっと支え、訝しげな表情を浮かべた娘が余った手を「失礼します」と言いながら知盛の額に差し伸べる。ひやりとした細くなめらかな指が触れる感触に、抵抗など微塵もみせず心地よさげに目を閉じた知盛は、娘の頬に添えていた手から力を抜き去り、ついでに背中からも力を抜いて上体を倒す。ゆったりと、もたれかかった先は娘の肩。首筋に額を乗せ、そろりと息を吸えば控えめで清廉な香が燻る。
流されるまま額から外された手が惑っているのも、巻き込まれて床に落ちた手が惑っているのも感じた。それでも、知盛はただ娘の存在を確かめていたかった。彼女こそが、知盛に『還るべき』世界を定義させた楔なのだから。
床に落ちた手はそのまま、宙をさまよっていた指先が肩からうなじへと滑る。過敏な反応を避けるためにあえて触れるまでに距離を置いたのだろうが、染み付いた習慣は抜けない。急所に触れられることで反射的に強張った体に、やはり反射的に指先が跳ねる。それでも、長く息を吐くことで力を抜けば、しばしの間をおいて離れた指に、赤子をあやすような調子で肩を軽く叩いて拍をとられる。
「熱がありますね。どれほどここにいらしたのです?」
「……さて、な」
衣の冷え具合などあてにはならない。あっという間に看破された体調不良はさておき、知盛は心地よい闇の中でくつりと笑う。触れて離れてと繰り返す穏やかな体温に、のどかな眠気が体の芯から湧いてくる。
Fin.