奇跡が死んだ日 --- 中編
瞳を覗き込んだところで、結局他人の心など読めるはずもない。ただ、娘の瞳に映るのが誰かの面影ではなく漠然とした郷愁であることだけを察し、そこでようやく知盛は身を引いた。視界に映った杯を拾い、酒を求めればぎこちない仕草ながらも律儀に応じる。
「難儀なことだ」
「……あなたにだけは、言われたくありません」
らしくないことをしたとの自覚に自嘲を篭め、半ば自分に、半ば相手に向けた言葉には、そっけないながらも核心を突いた言葉が返された。ちらと流した視線が、残したままだった酒を思い出したように呷る細い喉を捉える。
「無様だと思われるなら、詰ればよろしいでしょう?」
酒精に焼かれて掠れた声が震えているのは、それだけのためではないだろう。どこかで覚えのある姿だな、と思い、時折り内裏で見かける殿上童のそれだと思い当たった。人目につかぬよう廊の、庭の隅に蹲り、親許を恋しんで声を殺すあの小さな背中と、同じにおいがする。
「中途半端な同情は、屈辱以外のなにものでもありません」
違うのは、この瞳。この声。この気迫。一時の失望ゆえに切り捨てずに置いた自分を、知盛は内心で賞賛する。気が短い自覚はあったが、今回ばかりは気紛れに好奇心を抱いたことが良い方向に繋がった。
苛立ちによって狭まった視野ゆえの勘違いで捨てるには、あまりにも惜しすぎた。この苛烈とも称せよう視線は、素直に好ましいのにと、そんな感想を抱きながら揶揄の言葉を選び出す。
「そう思うなら、隠すなり蹴散らすなりすればいい」
「隠しています」
「俺には、剥き出しに見えるぜ?」
「それは――!」
さあ見せてみろ。そう思って誘導してやったというのに、娘はすんでのところで言葉を飲み下す。追い、求め、悼み、惑い、そしてそんな自分を必死に隠し、律そうとする気配。触れれば壊れる玻璃かと思えば、曇ることをよしとしない刃のような気位をみせる。
くるくると色を変える気配と表情とをじっと観察していた知盛の目の前で、ふと娘はまた遠くを見やる仄暗い光を瞳の奥に湛えた。だが、今度はそれに苛立つことはない。自分の中に、この娘は自分でない何かではなく、自分では見えない何かを視ているのだと。根拠のない直感だったが、外れていたとしても構う気はなかった。要するに、娘は自分に何らかの殻を求めているのではないのだと、それを知っただけで、失望を抱く理由はなくなったのだから。
「続きはないのか?」
「……かなしいひと」
仄かな笑みを滲ませて揺らした声に、静謐な呟きが返される。
「わたしは、あなたを見ています。あなたを“あなた”として見ていればこそ、あなたの向こう側に“あなたではありえない誰か”が透ける……でも、それは“あなた”を見ている証でもあるのに」
ようやく戻ってきて現実の知盛を見据える視線もまた、ただひたすらに静かだった。その瞳の色のごとく、月のない夜の、あの静かでやわらかな闇と同じ深閑さ。
「あなたがわたしの縛られていたものを知らないように、わたしもあなたの縛られるものは知りません」
知ったところで、今さら見誤るとも思えませんけど。言葉は明確なようでいて謎かけのようでもあった。音にして紡がれた奥にある真理を掴み取ろうと、知盛はひたと視線を返す。それに怯むでもなく、無感動に、しかし流れるように自然な挙措で娘が指を差し伸べる。
体温が伝わるほど近く、しかし決して触れずに頬のあたりをさまよわせた指を、娘は問うようにその場に留める。
「許されるなら、鞘になりたいと思います。わたしはあなたを見失いません。だから、わたしに預けてはみませんか?」
それを望み、見込んで私を拾ったのでしょう、と。継ぎ足された言葉は、すとんと胸の奥に落ち着いた。
常識知らずの言動をみせもするが、頭は悪くない。それが知盛の娘に対する評価だった。ゆえ、まるで気づかれていないとまでは思っていなかったが、自分でも明確に定義していなかった衝動を言葉に置き換えられるのは、何やら不思議な心持ちだった。ただ、己に空虚な権威で縁取られた殻を被せようとしない存在が物珍しかったと、それだけのつもりだったのだが。
「……お見通し、か」
自分にも存外可愛らしい一面があったのだなと、妙に素直な感慨を交えて自嘲の吐息に言葉を添えるものの、後味の悪さはない。
「思い知っただけです。今宵の知盛殿は、随分と無防備でいらっしゃいますから」
「俺も、やきが回ったものだ」
浮いたままだった手の甲を、杯を持つのとは反対の手で包み、頬を寄せて瞼を伏せた。肩から力が抜けたことを自覚して、初めて自分が随分と気を張り詰めていたらしいことを知る。滲み出す疲れを取り繕う意思は、微塵もない。
「知盛殿? もうお休みに――」
「見失わぬ、と」
気配の変化を敏感に察したのだろう。いつもの生真面目な女房としての声に気遣いを交えてかけられた言葉を、意図的に遮って視線を持ち上げる。疲労など、今でなくともいくらでも癒せる。それよりも、ここで確認しなくてはならないことがあるのだ。
「その言の葉、真実か」
放った言葉に、娘が息を呑む。けれど、取り消すつもりなど毛頭ない。当の娘こそが定義したのだ。自分はそれを求めて娘を拾ったのだと。
「刃は鞘がなくとも存在を失いませんが、鞘は刃がなくば意義を失います」
はたりとまばたき、娘は厳かに声を紡いだ。
「わたしは、“あなた”の鞘となりたいと願いました。だから、“あなた”という刃を見失えば、それはわたし自身の意義を見失うことにも繋がります」
「……随分と、身勝手な言い分だが?」
「だからこそ、真実味がありましょう。ヒトは、己の欲望にこそ忠実なモノ。そして、わたしの欲望は、あなたへの誓いになります」
見返す瞳に、偽りの気配はなかった。神のように冷厳で、獣のように貪欲で、玻璃のように透明な瞳。奥底に見えるのは、絶望と郷愁と、同病相憐れむ想い。ただの同情や哀れみならば切って捨てるところだが、渇仰と背中合わせのそれは、娘もまたこの世界での身の置き所のなさを実感しているがゆえのものだと雄弁に語っていた。
還る場所を失った娘と、しがらみを脱ぐ場所を持てない自分と。
「真理……だな」
だからこそ、その言葉を疑う気持ちは露ほども湧かず、穏やかな納得が促される。
杯に残っていた酒を飲み干せば、仰のけられた視界の高いところに銀鏡が見えた。もういい時間だと、それを意識した途端に眠気が襲ってくる。
常のからかいとほんのわずかな本気を篭めて閨事をにおわせる言葉を放てば、暫しの黙考をはさんだ娘は淡々と褥をあつらえるばかり。本当に、一時の失望で捨て去らなくて良かったと、しみじみ実感させてくれる面白い存在である。機嫌の良さをそのまま、天へと視線を投げて知盛はそっと双眸を細める。
あなたには、自分にとってのこの娘のような場が、果たしてあったのだろうか。
述懐は、もはや届くはずのない長兄へと向けたもの。
偉大な兄だった。腹違いということもあったし、自分が生まれた頃には一児の父でもあったその人は、知盛にとっては兄である以上に一門の総領だった。あの人の下で、一門のためにこの命を使い尽くすのだろうと、それだけを理解していた。
息子として、兄として、夫として、父親として、貴族として、武士として、人として。あの人以上の存在を、知盛は知らない。非の打ち所のないあの人を見て、焦がれ、敬うと同時に知盛は自身という存在を静かに諦めた。
ああはなれない。けれど、ああでなくてはならない。
血の宿命は理解している。それはどうしようもないしがらみであり、恩恵であり、責務。まっとうすることに否やはないし、そこには疑問をはさむ余地などない。それでも思うのだ。では、己の存在はその宿命がすべてなのか、と。
そんな些細な違和感を覚える己を嫌悪しながら、知盛は“平知盛”という殻を被ることを覚えた。そうして日々を送る中で、しかしどうしようもない齟齬を発散させることができていたのは、頂にあの人が立ち、それを残る兄弟で支えるという構図が成り立っていればこそ。知盛の気鬱さえも、あの人は見透かしていたのだろう。多忙を極める身分ゆえ、本当に数えるほどしかない言葉を交わした記憶の中で、豪気に、穏やかに、すべてを受け入れるように笑っていた光景が際立つ。
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