朔夜のうさぎは夢を見る

奇跡が死んだ日 --- 後編

 鮮やかな人だった。偉大な人だった。誰もが愛し、慕い、敬い、焦がれた。光そのもののような人だった。光の隣には陰があるのだと、そんな真理さえ忘れさせる、眩い人だった。だからこそ、喪われた後の闇が、あまりにも深い。
 兆候はあったのだ。ただ、誰もがその行き着く先を見ようとしていなかった。見据えることを忌避してしまうぐらい、あの人は誰もに必要とされていた。知盛にとっても、必要だった。兄として、総領として、そして人として。あの人だけが“平知盛”であることの気鬱を見透かし、受け入れ、その向こうに“知盛”を見る目を常に忘れなかったのだから。
 あなたは孤独ではなかっただろうか。問うことを思いつきさえしなかった疑問が、今さらのように胸を衝く。
 あの人以上の存在を、知盛は知らない。あの、人ではないような、欠点の欠片もない存在を、知盛は他に知らない。けれど、それがすべてだったのだろうか。
 あの人は憂えていた。それはすべて一門のことであり、あの人自身のことではなかった。悩みはなかったのだろうか。違和は感じなかったのだろうか。肩から力を抜き、あの人がただの男として在れる場所は、果たしてこの世界に存在したのだろうか。
 兆候ゆえに覚悟していたとはいえ、その死を嘆き悲しむ親族の只中において、涙の一滴さえ流れない己に、知盛はそっと眉根を寄せるだけだった。なぜかなどと、考える必要もない。こういった場において“平知盛”が取るべき行動が、不覚にもわからなかったのだ。
 定められた儀式が進行するさまを亡羊と見やり、悲嘆の向こう側から向けられる視線を感じていた。次兄はもういない。知盛が幼い頃、流行り病で逝ったと聞く。その次の、知盛のすぐ上の兄は、ありていに言ってしまえば凡百な人物だった。武家の総領としても、貴族の総領としても、あまりにも平凡にして非才。そして、治天の君のお気に入りとして名を馳せる“平知盛”が対照的に非凡な才を持っていることを、かなしいかな、知盛は正しく把握していた。


 悔やみの文句を言う振りをして、さっそくご機嫌伺いにやってくる貴族連中をあしらいながら、気鬱が深まるばかりの知盛に、気づいてくれるあの人はもういない。焦がれたあの人を喪い、敬ったあの人の立っていた位置に少しだけ近づき、そして思い知ったのはどうしようもない孤独と絶望。
 あの非の打ちようのない、奇跡のような人は、この絶望の一切を感じていなかったのだろうか。この孤独を、どこかしらで癒せていたのだろうか。それは、もはや埒のない問答。
 最後にあの人と言葉を交わしたのは、それも、政だの軍事だの以外の言葉を交わしたのは、いつだっただろうか。記憶を手繰り、辿り着いたのはあの人が床に臥す前のこと。病床についてから見舞ったいくつかの記憶の中では、あの人はいつでも一門のことを憂い、今後のことばかり口にしていた。そんなことまで思い返す。
 そう、そうだ。あの人にしては珍しく、弟に関する随分と古い話題を持ちかけてきたのだ。あれは春だった。梅の蕾が綻んでいて、父の邸を辞す前に、庭で梅木を見上げていた。

――お前、新しく女房殿を雇ったんだったな。

 階を降り、わざわざ隣に立って笑うその表情に、曇りなどなかった。ほぼ位置を同じくする紺碧の双眸を見返し、小さく肯定を返せば、珍しいなと笑われた。

――大事にしてるそうじゃないか。安芸殿に聞いたぞ。

 雇ってから既に半年は過ぎたというのに、今さら話を蒸し返す理由をあっさりと告げ、大切にしろよ、と繰り返して肩を叩かれた。

――その人は、お前を見つけてくれたんだろ? なら、大切にしろ。で、見失うんじゃないぞ。

 覗きこんでくる瞳は恐ろしいほどに真摯で、唇に浮かぶ笑みはただやわらかかった。それは、慈愛と祝福とに満ち満ちた、厳かな笑み。不慣れなことに対応を迷い、逃げるようにして辞去の挨拶を告げて踵を返したことを覚えている。その背中に向けられていた、本当に穏やかな視線も、覚えている。けれど、それだけだっただろうかと、今になって思うのだ。


 あなたは孤独だったのだろう。誰もがあなたに焦がれ、あなたを慕い、あなたを敬い、あなたを愛した。だからこそ、あなたは光り輝くことしか許されなかった。あなたが翳を纏うことは、あなたを見やるすべての人に対する、あまりにも残酷な裏切りだった。
 背後で蠢く気配の調子が変わったことから褥の準備が整いつつあることを察し、知盛は手ずから格子を降ろし、羽織っていた衣を手近な衣桁にかける。驚きと申し訳なさを混ぜ合わせた瞳が思いのほかあどけないことが面白かった。笑いながら歩みを進め、興の向くままにからかってみる。
 言葉を弄して遊ぶ知盛にひけをとることなく切り返した言質をいいことに、温石もどきとして懐に抱きこむ。緊張からか、それ以外の感情でか。腕の中で硬く強張っていた体から、ふと力が抜ける。そして、思い立ったという声音で告げられる提案に、中途半端なところで放っておかれていた思索が動き出す。
 眠りを導き、安らげるため、言の葉を奏でようと言う。それは純粋に知盛に向けた提案だったのだろうが、知盛が思い描いたのは、やつれ、こけてしまっていた見慣れない横顔。
 息子として、兄として、夫として、父親として、貴族として、武士として、人として。あの人以上の存在を、知盛は知らなかった。非の打ちようのない存在。それは、おおよそ人としての枠を超えた、ありえない在り方だった。ゆえ、あの人は奇跡であり、人としてはあまりに孤独だったのだろうと思う。
 揶揄を向けながらぼんやりと耽っていた思索が、ついに果てをみる。
「――眠りを安らげる、ね」
 ぽつりと、なぞりなおした声は、あまりにも静かに凪いでいた。
 あなたには、自分にとってのこの娘のような場がなかったのだろう。だから、あなたはあんなことを言ったのだ。この身が掴んだ僥倖を、知らず手放すことのないように、あなたは忠言をくれた。祝し、見送ってくれた。それはなんという慈愛。やはり、あなた以上の存在など知らないと、知盛はひたすらに繰り返す。
 滲んだ哀切に気づいただろうに、娘は気配を揺らしただけで、特に言及はしてこなかった。浮かぶ苦笑をそっと洩らし、素直に乞えば、音がさざなみのように広がっていく。


 哀しみを悲しみと捉え、発散させる術がわからなかった。
 ただ、知盛は圧倒されていたのだ。喪われるはずのなかった奇跡の喪失に。そして、喪って思い返して、ようやく思い至った。その奇跡もまた人に過ぎず、その奇跡の奥に、きっと齟齬と葛藤と孤独と絶望を抱いていたのだと。
 もう遅い。何もかもが、もう遅すぎる。察したところで問い質す術はなく、気遣う機会はなく、向き合うことさえもできなかった。
 自身を万能だと思ったことなど、一度もない。けれど、仮にも血を分けた兄弟だったのだ。総領とその郎党としてではなく、ただの兄と弟として、もっと身近に接することはできなかったのだろうか。せめて、ほんのわずかにでも、あなたの翳を知ることが出来たなら、あなたはかくも早く此の岸を見限らずにいてくれただろうか。あなたが自分を、殻の向こうの自分を視てくれたように、自分もまた、あなたという光の奥を見やることはできなかったのだろうか。
 今になって湧きあがる後悔に、知盛はそっと息を殺す。訪れた衝撃をやり過ごすばかりで眠ることさえできずに過ごしたこの五日は、思いのほか体に負担を強いていたらしい。腕の中のぬくもりと音の波紋に誘われるように、重く靄のかかる視界を閉ざし、そこで初めて目尻から頬を伝う感触を知る。

(あにうえ)

 唇を動かさずに紡いで、脳裏にはあのかなしい躯ではなく、光そのものだった笑顔を思い描く。
 平知盛にとっても、知盛にとっても、その笑顔の眩しさは、変わらぬ真理だった。だから、“平知盛”としてどうすべきか判らなかったあの偉大な人の死を、ただの男としてのあの人の、ただの弟である“知盛”として、今は素直に悼もうと思う。
 あなたの憂いを引き受けるには、この身では足りないだろう。あなたのようであらねばと思い、けれどあなたのようにはなれないと知ってしまった。あなたのように、すべてを隠して光そのものであることはできない。誰にも自身を認めてもらえず、その向こうでなお笑って立っていられるほど、強くは在れない。
 だけど、あなたの忠言どおり、見失わずに生きてみようと思う。その生き方が齎す結果は、あなたの愁いを酷くさせるだけかもしれないけれど。

(どうぞ、いまはやすらかにおねむりください)

 願い、祈り、そして誘われた久方ぶりの眠りの縁で。知盛は、豪気に、穏やかに、すべてを受け入れるように笑う懐かしい声を聞いた。





(あなたという奇跡を喪い、そしてわたしは、)
(この腕がいつか知るぬくもりを喪う日に怯える己を知ることから、黙って目を背けました)

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。