朔夜のうさぎは夢を見る

奇跡が死んだ日 --- 前編

 宵闇の向こうで、舞う細い背中を見た。ひらり、はらりと、その影は呆れるほど忠実に型をなぞる。そこかしこにぎこちなさは残っているものの、当初の読みに比べてよほど上達が早い。筋が良かったのだろう。その手の誤算や裏切りならば、大歓迎だった。
 気配を殺すのはもはや身に染み付いた習い。まるで気づく様子がないのをいいことに、知盛は踵を返して私室から愛刀を持ち出す。二振りの、一般の太刀に比べて細身のそれ。すらりと引き抜く鞘走りの音は涼やかで、姿を見せた刀身は宵闇によく映えた。
 鞘を適当に簀子縁に転がし、階の下に備え置かれていた草履を引っかける。以前、沓のないまま裸足で庭に降り立って以来、娘は自分の鍛錬する庭に通ずるこの階に、常に草履を置くようになった。一通りの文句と説教めいた言葉を紡ぎながらもそれだけでは終わらせないあたり、つくづく喰えない性格だと知盛は小さく口の端に笑みを刷く。
「――ッ!?」
 気配を殺したまま背後に寄り、視界の隅にぎりぎり映る程度の位置で剣気を見せ付けつつ斬りかかれば、咄嗟に身を捻って金属同士のぶつかる音を響かせる。そのまま、筋力やら経験やらの差を考慮しつつ、二合、三合と打ちかかる。容易に避けられるそれではないが、膝を屈するには甘い攻撃。返す刃はやはり呆れるほど型どおりの、基本に忠実な軌道を描いたが、悪くはない。
「……良い腕だ」
「嫌味ですか?」
 鍛えがいがあると、そう素直に感じて口をついた感想には、息を上げながらの切り返し。知盛の実力はわかっているだろうに、褒められて喜ぶどころか不機嫌さを匂わせる。もっとも、たやすく迎合されても面白くない。この気骨があってこそ、わざわざ手ずからの手ほどきなどをしてやっているのだ。


 わずかに上向いた機嫌のまま、なれば次はと少々篭める力を上げれば、しかし娘はあっさりと吹き飛ばされて地に転がった。胴を捻って己の刀から身を庇い、すぐさま体制を整えて対峙する。だが、斬りかかってくる気配はない。
「嫌味、とは? 俺は、純粋にお前の腕前を褒めているんだが」
 切っ先は持ち上げたまま、しかし無防備に立ち尽くしながら知盛は心外だとばかりに声音を繕う。それでも娘は不機嫌を解かない。
「まだ基本の型をなぞることしかできないのに、お褒めいただく理由はありません」
 憮然と返された言葉には、からかうな、との意が鮮やかに載せられている。それは知盛と己との実力差を正しく量ってこその言葉なのだろうが、実力差を量れるということ自体、ある程度実力を積んだ証。今度こそ素直に、知盛は娘の腕が上がったことへの満足の笑いを喉の奥で転がす。
「まあ、そう言うな。はじめに見たときよりも、腕が上がったんだ。感慨を抱くぐらい、許されよう?」
 どうせいつもの言葉遊びに過ぎないとでも思っているのだろう。不機嫌に、けれどじっと静かに見やってくる夜闇色の双眸を見返し、率直に評を与えてやれば、途端にあどけない様子で瞬きを繰り返す。
「上達していますか?」
「なんだ、自覚はなかったのか」
 いっそ素っ頓狂ともいえる声で問い返され、意外と呆れを混ぜた言葉を投げ返す。あれだけ動きがなめらかになったのだから、疲弊の具合や心の持ちようなど、いたるところに自覚を促す兆しはあるだろうに。
 もっとも、知盛の側としては娘の鍛錬を久方ぶりに見たから、という理由も存在する。そんなことをぼんやりと考えていたからかもしれない。
「あるにはありましたが、思い込みに過ぎないか、とも」
 独り言のように、ぽつりと返す声でふと遠くを見やった視線に、汗と共に流したはずの苛立ちが戻ってくるのを自覚する。遠く、此の岸を超えて、彼の岸を見やるような瞳。ああ、これもまた自分を見ないのだと、そう思ったときには、他愛のない遣り取りの向こうで、告げるつもりのなかった言葉が唇をすり抜けていた。


 酒でも飲ませれば変わるかと、それさえもすべて気紛れに過ぎなかった。だというのに、娘はほんの気休め程度に舐めただけで杯を遠ざける。世事になぞ囚われぬとでも言うようなその姿は、厭わしくも哀れであり、振り払ったはずの感慨を刺激した。世事に囚われぬその視線、その立ち位置を好ましく思って拾ったというのに。やはり月の世界の住人は、地上の雑事になど興味はないのか。矛盾した苛立ちを抱き続ける自分の胸中こそが不愉快で、知盛は自棄のように呷っていた杯をとうとう床に下ろす。
「……酒精も、お前の視界を塗り替えるには足りぬか」
 お前は何を見ている。じっと、見透かすような、見徹すようなその視線で。自分の中に、自分の上に、何を見ている。苛立ちはけれど決して口にはせず、常と同じからかいの視線を寸分の違いもなく装っても、娘の双眸の静けさは変わらない。
「いかがなさいました? いったい何に、かくも苛立っておいでなのです」
 そして、ついにすべての上辺を突き抜けて、娘は核心へとその切っ先を突き立てる。だというのに、因果を知らぬと言ってのける。その矛盾は、何ゆえか。娘が無意識に目を逸らしているだろう事実に、だから知盛は切っ先を突き立て返す。
「お前が俺に何を重ね見ていようと気にせぬつもりだったが……その視線の熱、捨て置くには好ましすぎる」
 神のように冷厳で、獣のように貪欲。お前のその瞳ならば、欲しいものが手に入ると思ったのに。伸べた指から逃れようともしない佇まいに、満足感と失望を同時に味わう。
「……そんなに、焦がれているように見えますか?」
 ついと絡められていた視線が床に落とされ、零されたのは失望を深める言葉だった。推測は確信へ、確信は現実へ。もはや興味も消え失せようかという瞬間に、しかし首をもたげたのは好奇心。周囲の、ほぼすべての人間が自分に何を視、何を期待しているのかを知盛は見誤ったことがない。そして、娘がその括りに納まらないということも知っている。ならば、娘は自分に何を見ているのか。それを暴く権利はあろうと、酒に手を伸ばしつつ言葉を継ぐ。


「焦がれる……だけではないな。追い、求め、悼み、惑うといったところか」
 伏せられた視線を、哀しみと絶望が覆っていく。
「あるいは、――未練」
 娘を追い詰める言葉を選びながら、知盛は同時に己の胸郭の奥がじくじくと痛むのを感じていた。いい加減鬱陶しくなり、付き合うべき最低限の義理を果たすと同時に振り払うようにして置き去りにしてきた、数々の視線の気配が背中に蘇る。あの気鬱を、娘は知盛を見やることによって自分自身に向けている。糾弾していてふと思い至ったその事実に、歪む唇が浮かべるのは憫笑。
「難儀なことだ。お前には、自虐の趣味でもあったのか?」
「あるはずがありません」
「その割に、中々に乙な目で俺を見るがな」
 震える声での反駁に追い討ちをかけても、杯を差し出せば己の勤めを果たさんとする。その矛盾した在り方に尽きかけた興味が少しだけ蘇り、気紛れのような自嘲と共に腕を引いて伏せられていた瞳を暴く。
 また自分を通り越した遠く虚ろな目をしているのだろうとの予想に反して、娘の瞳は怯えをみせていた。夜半の山中で出逢った時でさえ見せなかった、脆く弱く玻璃のような瞳。
「悼み、懐かしむことで恋う目でなぞ見るな」
 それは、知盛が振り払ってきたそれらとは似て非なるもの。ならば、抱いた確信は覆されるのだろうか。ちらと思考の隅をよぎった予感が、唇を動かす。
「俺は、ここにいる」
 声に滲んだ切望を、知ってくれと、どうか気づいてくれるなと、相反する感情が追いかけるのを、他人事のように感じていた。


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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。