琴瑟の調べ
「して、いったいいつまで、御身は無粋を決め込むつもりだ?」
宵も深まり、酒をほとんど嗜まない身には、そろそろ退屈な時間になってきたのだろう。先に席を外す旨を告げに来たかつての仇敵たる少女が目の前に座す朴念仁の耳に何やら物騒な言葉を残すのを黙って見送った後、知盛は何気ない風を装って少女の援護に回ることにした。
しれっと放った言葉が耳に届くまで、一秒もかかるまい。だというのに、朴念仁はゆうに呼吸ひとつ分の間を挟んでから目を見開き、遅れて手元から杯を取り落とし、慌てて床を袖で叩く。もっとも、取り落とした杯の中身は、先ほど本人が飲み干したばかり。反応が遅れたからこそむせることはなかったが、なにかと間抜けなその反応に、知盛は深々と溜め息をつく。
「あそこまであからさまに媚態を見せられ、よくもまあ、平静を保っていられるものだ」
「び、びたっ、びたい――ッ!?」
「媚態、だろう?」
ここぞと狙いを定めた男に、酒精に火照った体を寄せ、傍近くにいる誰にも届かないようにと耳元で歌を囁く。戦場で目にしていた、大黒天女のような迫力はどこへやら。そういえば、あれからもう二年は経つ。いつかの少女も、艶やかに色めく年頃に差しかかったということだろう。
「で? いったい神子殿は、なんと囁いてくださったのだ?」
いたずらに笑いかけながら、知盛は転がったままの杯を九郎の面前に据え直し、手ずからなみなみと酒を注いでやる。必死に朴念仁を装う男の背中を押すには、弓と剣とで切り抜ける戦場で百戦錬磨の神子殿では、やや力不足だったのだから致し方あるまい。
いったい何をこんなに恐れているのか、というのが知盛の偽らざる感想だ。源平の諍いは和議にて決着し、朝廷を中心と仰ぐ新しい制度も整った。宮中での振る舞いに不安が残る鎌倉や熊野の面々が、参内の経験を持つ平家の面々にやや後れを取る場面も見受けられるが、そんな小さな部分で優越感を感じるほど、知盛は宮中というものを軽視していない。目先の小さな利益をとるより、ここは経験を使って彼らの不足部分を補い、いかに早く同じ立ち位置に上ってきてもらえるかと立ち回ることこそが肝要。
この新しい体制を盤石のものとするためには、まず、朝廷を仰ぎ見るという同じ立場にある各勢力が、宮中でのままならなさからうっかり、平家憎しの感情に火をつけないよう目を配ることが重要なのだ。
それには大変に神経を使うし、正直なところ、気疲れも少なくはない。だが、だからこそ見えてくる細かな情動の数々が、なんだかんだと興味深い。目下の知盛の楽しみは、かつての戦乱において源氏勢を率いた二人の御旗頭の、あまりにじれったい恋の駆け引きの観察である。
朴念仁だの鈍感だのと、身内にこそ散々こけにされている九郎であるが、知盛の目にはそうは映らない。少なくとも、宮中で投げかけられる女房達からの恋歌には、不器用ながらもなんとか受け答えが返せているし、致命的な言質を取られるような事態にも陥っていない。あの魔窟で、なんだかんだ恋の噂を一切流さず乗り切っているからには、人の感情の機微をきちんと読み取る感性を持っている証拠だろうに。
「……望美には、将臣がいる」
いつまでも干されない杯を待つほど、この席は畏まったものでもないし、知盛は九郎に遠慮を感じていない。気まずいほどでもない沈黙を、手持無沙汰にならない程度の速度の手酌でのんびりと過ごしているところに、思いがけない言葉がひらりとよぎる。
「………御曹司殿。いま、何と申された?」
「だから、望美には、将臣がいるではないか」
確かに、望美は何くれとなく俺に気遣ってくれている様子があるが、その、前々から将臣とは良い仲なのだろう? 俺も、望美のことは好ましく思うが、だからと言って人の恋路を邪魔立てするほどの甲斐性もないし、そこまで自分に自信があるわけでもないし、誰かを不幸にしてまで己の欲望を満たそうとも思えないんだ。ま、将臣には、その、まだきちんと聞けたことはないんだが、けれど、俺だってそのぐらいの気遣いはできるつもりで――。
「御曹司殿」
呼びかけることで、とりとめなく終わりの見えない、言い訳にもならない言い分を遮り、知盛は己の見る目のなさを少なからず後悔した。なるほど、これはとんでもない朴念仁である。
「まず、飲め」
いつまでたっても持ち上げられない杯を目線で示せば、素直にぐいと飲み干される。どうせ、味も何も感じてはいないのだろうと思いつつ、まずは酔わせることしか解決策が頭に浮かばない知盛は、ずいずいと杯を満たし続ける。それなり以上に酒に強い九郎を前後不覚にするには物足りないが、とりあえず、らしからぬややこしい思考など挟ませずに恋歌のひとふたつくらい、口をつかせる程度に酔わせればそれでいい。
ちょうど、今宵は美しい月が出ている。いくら朴念仁でも、散々に耳に歌を吹き込んでから月を仰ぐにちょうどいい庭を歩かせ、そこで女に声をかけられれば、吹きこまれた歌をなぞるくらいはやってくれよう。女はちょうど、月を冠した名の持ち主なのだ。
当人には告げないままの思惑を言づけられた女房に先導されてふらふらと部屋を後にする九郎を見送った知盛は、酒宴の終わりにはふさわしからぬ難しい顔で、静かに腰を上げる。さて、この策は吉と出るか凶と出るか。とにもかくにも、既に賽は投げられた。あとは、必要な人物を場に揃えれば今宵の役目は終わる。なんとも複雑な思いを溜め息ひとつで振り払った知盛は、難攻不落な砦を果敢に攻め続ける少女の下がった局へと足を踏み出した。
Fin.