琴瑟の調べ
ふと紡がれたみそひともじの言の葉は、その場に居合わせる面々を硬直させるに十分すぎるほどに威力を持っていた。
声の主は、恐らくなんの気無しに紡いだのだろうが、意味が重い。気づかずに紡いだからとて、そう簡単に許されるものではない。
「の、望美? いったい、どうしたの?」
ふらりとご機嫌伺いに訪ねてきた弁慶を交え、梶原邸に住まう兄妹とかつての白龍の神子で穏やかな歓談の時をもっていたというのに、何がどうしてこうなったのか。誰もが、いかな言葉を紡ぐべきか、あるいは声を発していいのかを必死に自問自答する中で、まず唇を震わせたのはかつての黒龍の神子。声が掠れていることなど、他の男どもの情けない様に比べれば、まったくもって言及するに値しない。
「朔、これどういう意味か、わかるの?」
だというのに、やはりというかなんというか。問いには問いが返される。なんともあっけらかんとした、いっそあどけない笑顔と好奇心を添えて。
「……そうね。とりあえず、文字通りの意味ならわかるわ」
「やっぱりわかるんだね! すごいなぁ」
「望美さん、先ほどの歌は、では、どなたかから聞き知ったものなのですか?」
きらきらと笑顔が輝くのが、またなんとも罪深い。やっと平静を取り戻したのだろう弁慶が先の朔の問いをもう一度繰り返せば、ようやく背景の事情が垣間見える。
「はい。昨日、さんに会った時に、知盛が」
彼女にそんな言葉を吹き込んだ人間は、まあ、大方の予想通り。こんなまだるっこしい言葉遊びを仕掛ける人間は、良くも悪くも源氏勢には弁慶くらいしかいない。その弁慶が呆気にとられていたのだから、却下。では誰かと考えて、残る候補は身分の割にあまりに身軽な熊野別当か、上流貴族の遊びのなんたるかを知り尽くした蝶紋の一族か。
出された名前はなるほど、まさにそんな言葉遊びを好みそうな御仁である。しかも、望美が理解できないことを見越して、そのことをこそ愉しむような相手だ。
とはいえ、妙なる胡蝶を公に我がものと知らしめてから、この手の悪ふざけはなりを潜めたと聞いていたのだが、弁慶の思い過ごしだったのだろうか。
「それはまた、いったいどのような状況だったんです?」
「おしゃべり中に知盛が帰ってきて、何の話をしてるんだ、って聞くから、恋バナですよー、って言って追い出したんです。そしたら、頭の固い相手は、こう言って口説くものだ、って」
でも、意味が分からなければ使えないじゃないですか。なのに、さんは困ったみたいに笑うだけだし、知盛は教えてくれないし。ずっと考えてるんですけど、よくわからなくて。
ちょこんと首を傾げる望美の様子に、含んだところは何もない。何もないからこそ性質が悪い。確かに、口説き文句としては一流の歌いかけだが、これを使いこなすには、望美ではいささか経験不足というか、技量不足の感が否めない。
「では、実際に使ってみれば良いのではないかしら」
さてどのように説明したものかと、場に居合わせる誰もが口を噤む中、これは己の役回りだろうと頭を捻る弁慶の耳朶を、そして思いがけない声が思いがけない言葉で通り過ぎていく。
「へ?」
「あの、朔殿?」
図らずも、振り返る二人の表情は同じ。ぽかんと呆気にとられるかつての源氏軍御旗印と、かつての切れ者軍師を前に、たおやかな若き尼君はいっそ清艶に微笑む。
「こちらのやり方で"あぷろーち"をすれば、今より成果が得られるかもしれないわ。知盛殿が教えてくださった歌とあらば、尚のこと」
ねえ、弁慶殿もそう思うでしょう? と、問われて否と答える理由はどこにもない。確かに、あの堅物にはこのくらい刺激的な物言いでなければ、望美の真意など伝わらないだろうし、進展も見込めまい。
隠す気があるのかないのか、望美の思いは常に弁慶には筒抜けだ。いい加減、九郎も適齢期を過ぎようとしているのだし、平家の実質の総領夫妻も落ち着いたことだし、そろそろ決着をつけてもいい頃だろう。
「…………そうですね。できれば、宵の頃がいいでしょう。酒が入っていればなお上々。他の方には聞こえないように、そっと囁くのが効果的かと」
そうと決めてしまえば、弁慶のなすべきことは、己の仰いだ神子に最上の策を授けることに他なるまい。歌の真意は分かりかねるが、こうもあからさまな言葉が連なっているのに、使いどころを誤るほど暗愚ではない。
そして、戦場の最前線を駆け抜けた白龍の神子は、なんといっても素晴らしき胆力の持ち主。二人からの助言にふんふんと頷き、にこりと鮮やかに笑ってみせる。
「じゃあ、タイミングを見て使ってみますね。ありがとうございます」
耳慣れない言葉が差し挟まれても、朔も弁慶も戸惑うことなどなくなった。きっと彼女は、最上の時に最高の形でこの策を使うだろうことを確信している。
「で、結局、どういう意味なんですか?」
そして始まりに戻った問いに、もはや何かを振り切ったのだろう朔が、鮮やかに笑う。
「いい加減、観念して私を口説きなさい、という意味よ」
確かにその通りの大意ではあるのだが、あの言い回しはいかがなものだったのかと。場に居合わせるも結局ひと言も発する機会を得られないまま、後からさめざめと愚痴をこぼす景時を慰めながら、弁慶はしみじみ「恋を知った女性は、強いですねぇ」と微笑むにとどめておいた。
Fin.