琴瑟の調べ
どたどたと足音を立てて廊を駆け抜けるような無粋を働くのは自分だけだと思っていたのだが、どうやらそれは思い過ごしだったらしい。
かつてならば、幼き帝への悪影響についてこんこんと説教を受ける未来が確実に予想されたものだが、彼は今、京にある寺社を自由に出ることは許されていない。不自由を強いていて申し訳ないと思う。しかし、幼くも立派に帝であった少年は、己が大人しく居を定めることで一門の皆々に安寧が約束されるならと、ただ美しく微笑んでくれた。その笑みを見た時、冷たい海の底の都にこの少年をいざなうことにならなくて本当に良かったと、将臣はしみじみ感慨を噛み締めたものである。
さて、遠からぬ郷愁は思考の隅に片付けるとして、足音の主だ。一応、将臣にとって心当たりは約二名ほど。いるにはいるが、今、この場にはいないはずの人間なのだが。
「まーさーおーみーくーんッ!」
将臣の知る限り、本日、福原に訪ねてくる予定もなければああも怒り狂った声音で名を呼ばれねばならない心当たりもない勇ましき幼馴染の少女は、迷いなく将臣の座す居室に辿り着くや、戦場での形相もかくやという勢いで両腕を頭上に振りかぶる。
太陽を背に負い、勢い良く振り下ろされたのはふわりと優雅な香りの漂う文であった。鬼気迫る望美の形相に、このままでは一刀両断に切り伏せられかねないと反射的に判断し、手近にあった文箱の蓋で応戦したのはある意味正しかったらしい。もっとも、望美が手にしていたのが真剣であったなら、もはや将臣はこの世の存在ではなくなっていただろうが。
「なんなんだよ、いったい」
「それはこっちのセリフだよッ!!」
一応、久々の対面となるのだが、二人の間に挨拶を取り交わすという発想はない。とりあえず、なんとか無事に文を受け取った将臣が自分の座っていた円座を望美に譲り、見覚えのありすぎる筆跡でしたためられた文にざっと目を通す間も、少女はぷりぷりと怒りをあらわにしている。
「ひどいひどい! 全ッ然気がつかなかった! だって、これまでこんな運命なんかなかったよ!?」
「だから、何の話だよ」
見覚えのありすぎる筆跡の持ち主は、将臣が彼らが日常的に扱う字体の読み取りを苦手としていることを知っている。ゆえ、彼なりに文字を崩さず、ひとつひとつを独立させて書くよう意識してはくれているのだが、こうも近くで集中を乱す存在があっては、読解速度はどうしても上がらない。適度にあしらいつつ、なんとか文字を追いかけていく将臣の表情は、しかしだんだんあからさまに曇っていく。
「なんで!? なんで、よりにもよって将臣くんに負けなきゃいけないの!?」
弁慶さんとか、泰衡さんとか、百歩譲って知盛とか重衡さんでもまだ納得できるけど、どうして将臣くんなの。顔を真っ赤にして、将臣に申し訳が立たない、なんて囁かれて、その時の九郎さんがとんでもなく色っぽくてめっちゃドキドキしてときめいたのに、でも、冷静に考えればそれってそういうことでしょ。
「私の初恋を返してよーッ!!」
「俺に不名誉な疑惑をかけてんじゃねぇよッ!!」
やっと話に追いついた将臣の必死の反論は、わんわんと声を上げて泣きはじめた望美によって、あえなく玉砕の憂き目を見た。
とっさに宥めすかし、なんとか泣きやませて話を聞いてもらえる状況を整えるべく戦略を組み直した将臣がやっと言いたいことを言えたのは、望美の来襲からおよそ一刻は経ってからのことだった。
「納得できたか?」
「将臣くん、本当の本当に、九郎さんとは何ともないのね?」
「だーかーらー、俺は、男に興味はない! そこんとこ、怪しいと思うんなら譲に聞けよ。あいつ、俺が部屋のどこにエロ本隠してたか、知ってるはずだし」
「でも、知盛が、将臣くんは平家にいる間、全然、女房さんとかに手出ししてなかった、って」
「状況が状況だから、控えてただけだ。初めはお客様扱いしてもらってたし、しばらくしたら戦が始まったし、そんな暇はねぇだろ」
「しかし、かといってまったく興味を示されない、というのでは、なんとも疑わしく感じてしまうものですが」
「それに、男の人同士の恋愛も、こっちだと普通なんでしょ? 九郎さん、綺麗だしかっこいいし、将臣くんが惚れちゃってもしょうがない気がするし」
「……なんで話を戻すようなことするんだよ、重衡」
「おや、気づかれてしまいましたか」
いつの間にやってきていたのか、肩を並べてぼそぼそと語り合っていた将臣と望美の背後から降ってきた艶やかな声音の持ち主は、じと目で振り返る将臣に、いっそ晴れやかに笑いかける。
「なんでも、望美殿が義兄上に恋のご相談に参られているとのことでしたので、僭越ながら、お役にたてることがあるかと思いまして」
「まあ、確かに俺みたいな恋愛経験値が低い人間より、重衡の方が良いアドバイスできるよな。とりあえず、このバカをなんとか立ち直らせてくれよ」
深々と溜め息をつきながらぐっと両腕を突き上げて体をほぐす将臣に代わり、重衡はするりと望美の正面に回って膝をつく。
「姫君。かくもご自身の恋心に惑っておいでなら、いっそ、私が攫ってしまいますよ?」
自分がどれほど言葉を尽くしてもどうにもならなかった少女が、恋の手練れのたった一言で目を見開く姿に、将臣はなんとも複雑な気分でもう一度、深々と溜め息をついた。
Fin.