朔夜のうさぎは夢を見る

夢見ること

 散々なものだった。三草山で一足飛びに福原を落とされたことといい、熊野が源氏方についたことといい、すべてが最悪のさらに上を行く展開だった。もはや、和議を結ぶなどというかわいらしい夢は見ていられない。とにもかくにも逃れようと、策を練りに練って幾重にも罠を張った。
 その結果として、戦う力のないものは無事に逃すことができたし、重衡や教経といった守り手をつけることもできた。怨霊兵達は源氏の神子に浄化してもらおうとことごとく前線に出し、すべてを諒解していた経正と最後まですべてを告げることのできなかった清盛に御座船を任せた。
 知盛と月天将には怨霊使いの代わりに怨霊兵の全体指揮を任せたが、きちんと事前の打ち合わせ通りに前線を退いたのだろう。捕えられたという噂も討ち取られたという声も、最後まで聞くことがなかった。一方で、別働隊と共に怨霊を主戦力としていることのカモフラージュに回っていた将臣は、最後の最後に捕らわれた。
 総合的に見れば平家はおいしいところをきっちりといただいたが、化かし合いの腕は両家共にそう変わらなかったということだろう。まさか自軍の水夫に源氏に買収されているものが紛れているとは思いもしなかったと。言えばきっと、知盛に鼻で嗤われる。
 還内府の正体を将臣と知って、どうやら九郎をはじめ、神子と八葉達が助命のためにありとあらゆる手を尽くしたというのが筋書き。どうやって頼朝の承諾を引き出したのかまでは弁慶は教えてくれなかったが、景時が幻術を駆使し、望美が大立ち回りをすることで世に広く“還内府”の『処刑』を演出したらしい。
 弁慶の訪れから一刻ほどでやってきた望美と譲に散々詰られ、泣かれ、将臣はようやく命拾いしたことを実感し、どことない違和感を抱きながらもその現実に感謝した。初めから気づいていただろう面々も、気づいていなかったらしい面々も。自分の命のためにと、きっと想像を絶するほどの苦難を背負い込んでくれた、すべての存在に。


 まさに降って湧いたに等しいこの不可思議で、いっそ不穏なほどの平穏に満ちた時間に、亀裂が生じたのは将臣が岩の褥ではなく上質な絹にくるまれて目を覚ました翌々日のこと。
 万が一にも人目についてはならないと、将臣が牢から移されたのは夜中のことだったらしい。その事実にさえ気づかないほど深い眠りに落ちていたということは、やはり疲労が限界を超えていたのだろう。誰の目にも明らかなその状態を歯牙にもかけず、助命と引き換えに与えられた条件のひとつが、目覚めの有無は問わず、可及的速やかに“将臣”がこの“世界”を後にすること。
 幻影を処し、そして存在そのものを事実、世界から抹消する未来の確約で、頼朝は“神子による還内府の処刑”を妥協したそうだ。あの戦乱の中で将臣達の思惑通り、怨霊兵をことごとく封印し、経正も清盛も打倒した神子一行は、当然ながら清盛が所持していた黒龍の逆鱗を手にしている。対の存在を正しく龍脈に還すことが適った白龍は、もはやいつでも応龍に戻れると笑ったらしい。だから、いつでも将臣達を元の世界に送れると。
 それでも一応、気の巡りだのなんだので時空を繋ぐのに適した日というのがあるらしく、一番近い日程として示されたのがこの日の夕刻。だというのに、その昼下がりを指定して頼朝が将臣に最後に会っておきたいと言い出したのだ。


 一両日にも満たない時間で別れを惜しむには縁が深く、けれどどことないぎこちなさがずっと払拭されない惜別の時間はなんとも違和感だらけだった。どれほどの時間を要するかは知らないが、どうせこの面会が終われば慌ただしく世界そのものに別れを告げることとなろう。その方が変な未練も残らないかと、考え方を変えることで前向きに残された時間を過ごそうとしていたのに、事の真相を知っているものならば誰でも同席していいとの許可つきときた。
「景時や九郎は、まあ、万一のための護衛って考えれば納得もできるけど」
 何がしたいんだ、と。頼朝を待つ席で思わず首を傾げて独り言を呟いた将臣に与えられたのは、一昨日に聞いたのと同じ同情の滲む、しかし今日は痛ましさに濡れた弁慶の言葉。
「たとえ何をお考えでも、君が“生きて”この世界を去る、という事実は、動きませんよ」
 ああ、きっとこの優しい違和感が拭い去られるのだ。それは確信。頭の隅でずっと燻ぶっていた、自分が生かされた真の絡操りをついに噛み締めるのだろうと、将臣は予感する。自分と、そしてあらかじめ知っていたろう面々と、もしかしたら知らずにいるのかもしれない面々で。


 実のところ、これほど間近に源頼朝という人物を見るのは、将臣としても初めてのことだった。これが自分達を脅かし続けた存在。これが、日本史に燦然と名を刻む傑物。
 既に源平の争乱には決着がついている。守りたかった人々は、もう彼らの手の届かないところに辿り着いているだろう。そう確信していればこそ、もはや将臣は頼朝を仇敵としてではなく、歴史の潮として見やることができる。
「詮議で見るつもりだったからな。こうして、正面から見るのは初めてだが」
 厳かに。開かれた唇から零れ落ちるのは、想像以上に重い声。
「なるほど。さすがは名にし負う“還内府”。良い目をしている」
 くっくと喉で笑った源氏の棟梁は、怯むことなく正面から己を見据える紺碧の瞳をじっくりと検分する。
「どうやら、覚悟はできているようだな?」
 試すような物言いに、返す言葉はない。あえて言葉を返す必要などどこにある。そうさ、そうとも。知らぬふりを貫きとおすことなど、できるはずもなかった。最後まで誰もが口を閉ざすというのなら、最後までに自分が切り出さねばと思っていた。
 知っているに決まっているだろう。この可能性に思い至れないほどの愚鈍さで“還内府”が務まるほど、平家は落ちぶれてなどいない。
 “還内府”を生かしたその代償は、同等以上の重みを持つ“誰か”の命なのだろうと。


 いかに武家の一門、荒事もまたその構成要素とはいえ、死が穢れであることは時代における共通認識なのか。都合のいい矛盾だと腹の底で考えながら、表情は動かない。痛ましさと気遣いの視線を方々から浴びながら、将臣は目前に運ばれてきた血濡れの衣を見据えていた。
「“還内府”はしょせん幻影。幻影を被るだけの、名もなく、地位もなく、生まれも知れぬ小僧。そんな小僧と自分達とではどちらに価値があるかと問われて、答えられなければ名折れ」
 既にどす黒く固まってしまった染みの向こうには、見覚えのありすぎる色と織りが垣間見える。あまりにもらしく、そして予想通りに過ぎる展開に思わず失笑が零れそうな将臣とは対照的に、どうやら事実は知っていてもその裏の事情までは知らなかったらしい面々が、衝撃をもって発言者へと視線を巡らせる気配を感じる。
「とはいえ、貴様こそが“還内府”だ。その命を見逃すだけでも過ぎるほどの譲歩とは思ったが、平家の鬼神と神将に敬意を払うだけの度量はあるつもりだ」
 すべてを単純に戦果としても良かったが、貴様には真相を知らせてやろうと思ってな。そう嘯く声を正面に、隣からは「そんな」というか細い悲鳴にも似た呻きを聞く。
 まあ、無理もなかろう。彼らは平家一門にとっては様々な側面を持っていたが、源氏の面々に対してはあくまで将でしかない。その一面のみから、彼らの持っていた深みを察しろというのは、酷以外の何ものでもない。

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