彼らの覚悟
「……甘いね。それは綺麗事って言うんだよ。知ってるかい?」
「知ってる。けど、熊野にとっても悪くない話のはずだ」
「どんな風に?」
「今の勢力を保って和議が成れば、朝廷は各地の動向を無視できないはずだ。となれば、和平が続く限り熊野の自治は保障される」
「それを、今回みたいにアンタ達が脅かさないって保障はあるのかい?」
「戦続きで消耗している平家や源氏と違って熊野は兵力も資金も損害を受けてないし、下手な手出しはできねぇよ。それは、今も同じだろ?」
「だったら、あえて和議に乗る益がないじゃん」
「逆に、戦に手を出せば、勝っても負けても、勝った方に呑まれる恐れがある。自治を失って、どっかの飼い犬になるんだ。その未来に甘んじる気があるのか?」
「可能性だろ?」
「そう思うのか?」
切り返してきた将臣の声を最後に、ヒノエは口を噤む。それは、知盛からの文にはなかった、けれど確かに考えねばならない可能性のひとつだった。
かつて、熊野は平家に楯突いて痛い目にあっている。その尻拭いの一環が湛快の引退劇であり、ヒノエの今の立ち位置なのだ。ならば、いくら将臣がヒノエに好意的であり、知盛が水面下で熊野への配慮を約束してくれていても、源氏という敵を失った平家がどう掌を反すかはわからない。かつて裏切ったではないかと、そう言われてしまえば下手に反駁できない。
そして、同じ恐れが源氏に対しても言える。こうして一門の双頭が自ら出てきている平家に対し、源氏はあくまで名代を寄越すのみ。少なくとも、平家の方が熊野に対して丁重な態度を取っているというのは事実なのだ。裏返せば、源氏の頂に座る頼朝にとって、熊野は平家という宿敵を打ち倒してなお重んじる相手ではないだろうということ。将臣の指摘は、まさに熊野にとって一番の悩みどころを鋭く衝いたものなのだ。
「いろいろ要求したいこともあるだろうけど、それについては出来る限り譲歩する。まあ、俺はそういう話はよくわかんねぇから、知盛と話してもらうことになるけど」
飄々と見えて目ざといヤツだと、そんな評価を下していたヒノエは、続けられた言葉にきょとんと目を見開く。
「まさか、そのためにわざわざ連れてきたって言うのかい?」
「おう」
さすがに福原をこの二人が揃って空けるのはどうなのかと思っていたのだが、よりにもよって、将臣は知盛を商談要員と見なしていたらしい。豪胆なのか、考えが足りないのか。あまりにも常識外れな根拠に声を失うヒノエを気にも留めず、将臣はあっさりと頷いている。
もっとも、だからといって福原の警護に抜かりがあるわけではない。そつなく隙なく、目を光らせるその筆頭は重衡に忠度と聞く。打って出るならともかく、護りに徹する分には不安要素などどこにもない布陣である。抜かりがなく、後衛に憂いがないからこその二人旅なのだろうが、やはり咄嗟には考えつかない。
にたにたと目だけで笑う知盛の様子からして、どうやらこれは彼がそそのかしたことではないのだろう。いくら当人の思惑に一致していたといえ、その提案に応じた知盛も知盛だが、発案する将臣も相当なものだ。これが熊野に対して与える印象の強さまで深読みした上でのものだとすれば、還内府という存在に対する評価を、ヒノエは大いに塗り替えねばならない。
「還内府と新中納言が応と言えば、平家の連中に否を唱える奴はいない。いたとしても黙らせるし、従わせる。お前らの将来を左右する取引なんだ。このぐらい用意しなきゃ、足りねぇだろ」
続けざまに披露されたその根拠は、確かにと納得するに足るもの。そして、将臣が今回の会談にかける意気込みの深さを雄弁に語るもの。
それはそうだろう。ヒノエは還内府という存在を将としてしか知らないが、軍事においても政においても、知盛の一門に対する影響力は絶大だ。あるいは絶対と言ってもいい。
一門の中枢にいまだ居座る重鎮達が何を思って将臣という客人を還内府などという存在に仕立て上げたかは知らないが、その将臣の言葉を無視できたとしても、知盛の言葉を無視することはできまい。血筋も、地位も、その才覚も実績も。すべてが揃った知盛は、たとえ還内府という総領の存在があろうとも、決して平家内でその存在価値を落とさない稀なる逸材。今の平家においてもなお、知盛が諾と判じるならば、それは平家が諾と判じたに等しいのだ。
「アンタ、意外ととんでもないんだね」
「まあ、なりふりなんか、構ってらんねぇからな」
しみじみと本音を吐露したヒノエに仄かに苦笑を向け、将臣は肩を竦めた。知盛を連れ出すということの重さをわかっていないならともかく、その物言いからして、どうやらすべてを理解した上での行動らしい。
思った以上に喰えない男だと次々に評価を塗り替えながら、ヒノエはさらに踏み込んでみる。
「でもさ、なりふり構ってないのは源氏も同じなんだよね」
「ま、当然だろうな」
「源氏方からも、協力を求める使者が来てる」
「……知ってるよ。知らないとでも、思ってたのか?」
ゆっくりと、あえて遠まわしな表現を用いたヒノエの思惑など見透かしているのだと、将臣は静かに苦笑を刷いてみせた。諦めと、自嘲と、悲しみと切なさと。あらゆる思いを飲み込み、溶かし込んだ笑み。
「それが、誰かも?」
「できれば、違うって思っていたかったんだけどな」
「そう」
さすがに滲み出た切なる哀願には短く同情を返すに留め、ヒノエは憐憫を喉の奥に殺す。それこそがこの世の常とはいえ、聞いていて気持ちのいいものではない。何を好き好んで、友と、兄弟と、刃を交える道を往かねばならないのか。
Fin.