ねむれるこちょう
夕食の席に現れたヒノエは、やはり妙に自信に満ち溢れた気配はあるものの、熊野別当などというご大層な肩書きを持つようには見えなかった。その肩書きを存分に活用して厨への出入り自由を獲得した譲の手料理に舌鼓を打ってから、「身贔屓が過ぎるとは思うんだけど」と前置いて、ヒノエはおもむろに表情を改める。
「いくらかこちらの手の内を明かしてやろうかと思ってね」
「……だったら、源氏についてくれる方がありがたい」
「だから、そう簡単には決められないって、昼にも言っただろ?」
アンタも大概しつこいね。そう大げさに溜め息を吐き出し、ヒノエは食事の最中からずっと仏頂面を崩さない九郎を半眼で見やる。
「オレは八葉として、アンタ達を贔屓しようって言ってるんだぜ? それをあんまり細かいことでぐたぐた言うんなら、別当として気分を害する可能性だってあるんだ。その辺、忘れんなよ“御曹司”殿」
「――ッ、俺は、」
「はいはい、九郎、そこまでね」
「ヒノエも、無用に場を荒立てるような言動は慎んでください」
「だったらちゃんとそいつの手綱を握っとけよ」
思わず身を乗り出しかけた九郎を景時が素早く抑え、弁慶が口を開く暇を与えずヒノエに苦言を呈する。それでも、ヒノエはまったく堪えた様子がない。さらりと言い返して肩を竦め、それから視線を真っ直ぐ望美に向ける。
集う一同の中では下から数えた方が早い若さではあるが、その瞳の深さは実年齢を裏切る。冷徹な、それは熊野に住まうすべての命を背負う、為政者の瞳。
「神子姫、お前は一体ナニモノだい?」
「え?」
「何のために戦うのかって、前にも聞いたろう? まずはその答をもらおうと思ってね」
静かに問いかけ、炎を髣髴とさせる紅の瞳がゆるりと視線をめぐらせる。
「オレは熊野を捨てられない。九郎は鎌倉が第一。敦盛も、遠まわしだけど平家を捨ててない。オレ達はみんな、寄る辺が違う。じゃあ、姫君は?」
「私、は……」
傾げられた小首に答えようとして言葉に詰まった望美を庇うように、厳しい表情の九郎が口を開く。
「ヒノエ、惑わすようなことを言うな。望美は怨霊を封印している。白龍の神子としての勤めを果たしているではないか」
「その“白龍の神子”を“源氏の神子”として御旗印に担ぎ出しているのは、どこのどいつだい?」
糾弾するような物言いをばっさりと切り捨て、ヒノエは冷厳な瞳を見開かれた九郎のそれへと据える。
「平家が怨霊を使役している以上、そう仰ぎたい気持ちはわかる。譲みたいに、世話になるんだから働きで返すっていう姿勢も否定しないよ」
むしろ、オレはそういうの、好きだしね。言って唐突な名指しに動揺している譲にちらと視線を流し、小さく笑ってヒノエは続ける。
「けど、オレが聞きたいのはそういうことじゃない。望美、お前の気持ちを聞きたいんだよ」
それは、年齢に不相応な、ひどく穏やかで深い声。
暫しの逡巡の中、望美がはっと振り返ったのは隣に座っている朔だった。膝の上で握り締められていた手をそっと握り、仄かに微笑みかける朔は「いいのよ」と呟く。
「あなたの望みを、過たず告げればいいの。大丈夫、誰もあなたを責めたりはしないわ」
「ああ、そうだね。そういう意味では、さっきの九郎の言も一理あるか」
ひょいと肩を竦め、いたずらげに笑ってヒノエは朔の言葉を引き取る。
「大丈夫だよ、姫君。お前が今から告げる言葉で源氏がお前を路頭に迷わせるってんなら、責任持って熊野が引き受ける。熊野別当たるオレが保証するよ」
「な!? 俺はそんなことはしないぞ!」
「ほら、御大将の言質も取れたし、遠慮はいらないよ?」
売り言葉に買い言葉といった九郎の発言をあっさり貰い受け、ヒノエは穏やかに視線で先を促す。乗せられたと悟ったらしい九郎はしばらく不機嫌な様子で眉間に皺を寄せていたが、決して望美を咎める類の表情は浮かべない。誰もがそっと見守る視線を注ぐその中心で、望美は深呼吸を繰り返す。
瞼を下ろし、その先で睫を細かく震わせ、彼女が何を思っているかを知るものはない。あるいはいたのかもしれないが、少なくともにはわからないし、隣で支える朔も、問いを差し向けたヒノエも、黙して待ち続ける九郎も知らないだろう。ただ、想像を絶する何かを抱えているのだと、その確信だけを胸に、もまた望美の答を待つ。どうか、希望を繋げてくれと祈りながら。
「私は、神子。白龍の神子であり、源氏の神子でもある。五行の巡りを正すために必要なら戦うし、一緒に戦ってくれるみんなを、守りたいって思ってる」
「……源氏の神子だから戦うんじゃなくて、五行を正すために、戦う?」
「みんなが源氏にいるから、私はみんなを守るために、源氏の神子として平家とも戦う。もしみんなが熊野の人なら、私は“熊野の神子”と名乗ってたよ」
きっぱり言い切った強い瞳をじっと見返し、ヒノエは愉しげに「ふぅん」と呟く。
「じゃあ、八葉が平家にいたなら、“平家の神子”?」
「うん。それで、きっと源氏と戦っていた」
「なるほど、それが姫君の覚悟なわけだ」
挙げられた例えに九郎は目を見開くが、結局何を言うこともなかった。たとえ何をどう仮定しようとも、今の望美は源氏に属し、平家と刃を交えている。その現実に揺るぎはないし、例え話の中にも、望美が源氏を裏切る要素は見当たらない。そして、その覚悟を受け取ったヒノエはゆるりと唇を円弧の形に吊り上げる。
Fin.