朔夜のうさぎは夢を見る

ねむれるこちょう

「どこに行ってたの?」
 戻ったらいないから、心配したんだよ。そう真顔で告げる望美に、はほろりと笑った。自分が何者であるかを理解しているだろうに、身を案じられることがくすぐったかったのだ。
「本宮の中を、見物させていただいていました」
「お散歩?」
「ええ。結局、見終わらないうちにヒノエ殿に見つかってしまいましたけれど」
 ヒノエの父に会ったことは、胸に沈めておいた。もしかしたらヒノエから情報が流れるかもしれないが、いちいち告げる義理はない。たとえどこにいようと、は平家の月天将なのだから。
 いたずらな物言いに軽やかな笑い声を返す望美は、どこまでもまっすぐで眩しかった。こののびやかな笑顔の向こうに、あの苛烈な戦士としての姿を秘めているのだから、人は見掛けによらないものである。


 ものぐさに見えて実はまめな知盛といい、優男に見えて食えない弁慶といい、どうにも自分の回りには内面と外面の乖離した人間が集まるようだとは至極冷静に分析する。無論その中には当人たるも含まれてしかるべきと名を挙げられた面々は声を揃えるだろうが、自覚というものは基本的に、何事においても薄いものである。
「うー、ごめんね。迎えに行って、ってお願いしたの、私なんだ」
「いえ。お話が終わる頃には戻るつもりでした。思いがけない広さに、迷子になったのはわたしですから」
「そう? ならいいんだけど……」
 上目使いにちらちらとの表情をうかがっていた望美は、にこりと返された笑みにもう一度「ごめんね」と繰り返し、それからはたと思いついた様子で両の手のひらを打ち合わせた。
「それじゃあ、返事をもらうまではここに泊まるんだし、せっかくだからみんなでゆっくり見ていこうよ」
「望美? 戻ったの?」
「あ、朔! ただいま!」
 濡れ縁を渡りながらの会話を聞き付けたのか、少し先にある部屋から顔を出したのは、若い尼僧。笑顔をさらに輝かせて床を蹴る望美を咎める人間は、一行の中には存在しない。その奔放な振る舞いに、馴染んだとも、諦めたとも。
 似たような光景を、はよく知っている。へらりと笑って「悪ぃ」と言いつつ、結局、自分のやり方をろくに変えなかった彼と、その彼を取り巻く愛しき一門の姿だ。仕方のないと、ため息をつきつつ誰よりも世話を焼いていたのは知盛だった。


 今だから思うことだが、もしやあれは、将臣がこうして重責を背負うことになると見越しての、知盛なりの罪滅ぼしの一貫だったのだろうか。我ながら突飛な発想だとも思うが、そう考えれば辻褄が合う。いくら知盛が面倒見の良い性格とはいえ、でなければあの、悲しげな横顔の説明がつかない。悲しげな、苦しげな。あれは、決して亡き兄を重ね見ての瞳ではなかったとは読んでいる。
「まぁ、それは素敵ね」
「でしょ? じゃあ、決まり」
 きらきら笑って振り返られ、はきょとと目をしばたかせる。どうやら、辿りついた部屋にて座り込んだところで思考に沈んだため、話の進行に置いていかれていたらしい。
「ええと?」
「さっきの話だよ。ヒノエくん、夕食は一緒に、って言ってたし、ついでに案内もお願いしてみようよ」
「……別当殿、御自ら?」
「そ。だって、熊野に一番詳しいはずだもん」
 さりげなく織り込んだ皮肉に気づいたのか気づかなかったのか、けろりと頷いて望美は屈託なく笑う。
「ヒノエくんが守ってきたものなんだから、ヒノエくんに自慢してもらわないと」
 そして続けられたこの上なく穏やかな声音に、は静かに息を詰めた。


 時折、望美は年齢や、恐らくはこの世界に流される以前に積んできたのだろう平穏な時間を裏切る瞳をする。その昏さ、その深さは、容易には身につかないはずのもの。
 確かに、戦場に出れば少なからぬ地獄を見たことだろう。たとえ神子として守られる立場にあっても、九郎達にとっては修羅場と呼べない場面であっても、戦争が海の向こう、あるいは歴史の遺物でしかない現代日本人にとって、人の死が転がっているならそれは地獄だ。だが、望美の瞳はそんなものではない。
 その立場からも、過ごした年数からも、望美と同じ環境で育ちながら望美以上に戦場を見ている将臣は、あそこまで昏い瞳をしていない。あれは、知盛に匹敵する瞳。知盛もまた参じた戦の数や規模以上に何かを悟った瞳をしているが、そこに至る程の、一体何を望美は見たというのか。
 あの眼は怖い。ただそう感じる己が内の声をゆるりと深く呼吸することで殺し、は笑みを形作ることを意識する。
「そうですね」
 得体の知れないものは恐ろしい。その瞳を持つ望美は恐ろしい。けれど、望美の意見に否やはなかった。愛し、守り、繋げる。その難しさを知ればこそ、の熊野を眺める瞳は慈愛に満ちる。
「とても、魅力を感じます」
「やった! じゃあ、さんも一緒に頼んでね」
「わたしが、ですか? 朔殿ではなくて?」
「朔にはさっきオッケーもらったから」
 視線を流した先では、若き尼君がはんなり微苦笑を浮かべている。八葉も白龍もそうだが、この対なる黒龍の神子もまた、望美にはとことん甘い。


 断る理由はなく、そしてわずかな時間を共にしただけではあったが、もまた望美の“お願い”に弱かった。
「承知いたしました。わたしの言を、聞き入れていただけるかはわかりませんが」
「大丈夫! ヒノエくん、さんのことスゴく気に入っているっぽいもん」
 笑いながら、一体彼女はどこまで何を見ているのか。絡まれている自覚はあったが、あからさまでは不味かろうとなるべく隠していたのに、望美はさらりとそんな指摘をしてくれる。降参の意も篭めて仄かに苦笑を刷き、は小さく頷きを返す。
 あるいはそれは、罪の意識だったのかもしれない。知らなくていいはずの戦場を駆ける彼女の、せめてその願いは及ぶ限り叶えてあげたいのだと。それがどれほどの意味を、価値を持つのかはさておき、せめてもの謝意と誠意を形にするために。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。