ねむれるこちょう
しばらく望美の言葉を反芻しては噛みなおすような素振りをみせていたヒノエは、瞬きをはさんで今度は逆にその言葉を待っている望美へと向き直る。
「よくわかったよ」
うん、と頷き、そしてヒノエは表情を改めた。
「けど、あらかじめ断っておく。悪いけど、オレがこの場で源氏につくことを確約するわけにはいかない。それは、オレの独断できる話じゃないからね」
「うん、わかってるよ。ヒノエくんが熊野を大切に思っていれば、それは当然だもん」
「嬉しいね。姫君は、九郎なんかよりよっぽどオレの気持ちをわかってくれてるってわけだ」
くすくす笑って変わらぬ仏頂面の九郎を揶揄し、それからヒノエはふと声を潜める。
「じゃあ、本題に入ろうか」
知らず息を呑んだ一同をぐるりと見渡し、ヒノエはゆっくりと、誰にとっても予想外だったろう情報を語りはじめた。
余計な修辞など一切はさまず、必要な言葉を必要最低限に用いた説明は端的で簡潔だった。それぞれが驚愕と意外の念、そして不審を複雑に絡ませるのを観察しながら、ヒノエは締め括りの言葉に私見を付け加える。
「悪い話じゃないと思うけどね」
言い終えて、すっかり乾いてしまった口腔に水分を補給するべく清水の湛えられた椀をヒノエが取り上げれば、ようやく思考が追いついたらしい弁慶が訝しげに口を開く。
「その話の、出所は?」
「それは明かせない。身贔屓の領分を超えるだろ」
「けど、熊野別当でもある君が言うってことは、相当確かな情報、だよね?」
「まぁね。信憑性は高いよ。オレはこの話を持ってきたヤツのことも、それなりによく知ってる」
次いで確認の言葉を送ってきた景時に頷き返し、ヒノエは驚愕と混乱から立ち返りきれない九郎へと向き直った。
「鎌倉の頼朝が院から要求されている内容を、この上なく確実に成し遂げる道だ」
「平家の連中が素直に従うものか。信用できん」
「帝の身柄の確保に、三種の神器の奉還だからね。渋るだろうけど、でも、その辺の道理さえ弁えられないほど、やつらも阿呆じゃないだろ」
「……やけに、平家の肩を持つんだな」
「熊野としては、これが一番おいしい。できればそうあって欲しい道って話だからな」
詰る色の強い呻くような言葉に、あっさりとヒノエは頷き返す。
より可能性の高い方につく心積もりはあるが、何があるかがわからない。それが戦というものだ。なればこそ、何事もないままの結末こそ、ヒノエが最も欲する道。
それぞれに衝撃をやり過ごしている面々の中で、さすがというか、だけは平静を保っていた。静かに視線を落として沈黙を守り、ただ遣り取りの行く末を見守る。流れに抗いながら、けれど流れを否定しない、矛盾を矛盾と知りつつ受け入れる姿。
湛快との会話はろくに聞かなかったため、二人が何を話していたのかは知らない。知る必要がないと言われ、知りたければ自分で探れとも言われた。だが、この件について意見を交わしていただろうことは確実だとヒノエは踏んでいる。そうでなければ、あの父親があそこまで愉しげに笑っているはずがない。あんなにも楽しげに、ヒノエの示してみせた道の可能性を肯定するわけがないのだから。
「ヒノエくん、それ、本当に仮定だけの話?」
「ん?」
誰もが己の思索に沈んでいるのをいいことに、ぼんやりと物思いに耽っていたヒノエは、ふと差し向けられた問いの声に視線を巡らせた。
「平家から、ううん。還内府から、そういう話が持ちこまれたんじゃないの?」
鋭い眼光でヒノエを見据え、そう静かに言い放ったのは望美だった。
「へぇ。姫君はそう思うわけだ?」
「誤魔化さないで」
三草山で敦盛を拾った時といい、どうにも望美は何かヒノエの知りえない情報源を持っているらしい。それとなく敦盛に鎌をかけてもまるで反応がないあたり、それがどういったものかは判じられない。だが、平家について、九郎よりもよほど情感に満ちた私見と知識を持っていることは確かだろう。
下手なことを言えば、すぐさまばれてしまうかもしれない。この様子では、どうやら話の出所を還内府と判じているようだが、その根拠も気になるところだ。源氏方においては悪鬼のごとく噂される将を、なぜそうも慈愛深い存在と見なせるのか。
疑念と関心を溶かした視線を送っても、望美は揺らがない。聞き出すのは骨が折れそうだと考えながら、仕方がないのでヒノエは軽く肩を竦めてみせる。
「なんとも言えないね。けど、そういう話を出してる勢力があるっていうのは事実だよ」
そして、息を吸って表情を引き締め、難しい表情を微塵も動かしていない九郎へと視線を移す。
「その上での、三山での協議になる」
「……つまり?」
「源氏への熊野の加担はあんまり期待しないで欲しいっていう念押しさ」
同じく視線だけで返す九郎の内心を代弁したのだろう。端的な景時の促しに応えて、ヒノエは小さく眉尻を下げる。
「年寄り連中の相手をする大変さぐらいはわかるだろ?」
実績は着実に上げている。よって、いたずらに侮られることは少なくなったが、かといって自分の声を鶴の一声とできるほどの支配力は持ちえていないのがヒノエの立場だ。周囲への影響力だけなら、今もなお引退した湛快の方がよほど上だ。
豊富な経験を持つ重鎮達を蔑ろにするつもりもないヒノエとしては、恐らくそれぞれの立場に即した意見を譲らないだろう彼らをどこまで妥協させるかが、一番頭の痛い懸案事項なのだ。
その面倒くささと大変さは、だんまりを決め込んでいた九郎にも伝わったのだろう。さもありなん。あの後白河院を相手に、この実直の一語が誰よりも似合う男が苦労をしていないはずがないのだ。朝廷にはべる貴族連中といい勝負だろう、腹に一物を抱えた狸どもを相手取る労苦への同情が空気を伝う。
「俺個人が八葉として今後も協力するってことは確約する。だけど、それ以上は難しいんだよ」
とりあえずの自身の立ち位置をもう一度確認したヒノエに、しかし望美はまだ退かない。
「もし、その協議で平家に味方するっていう結論が出たら?」
ひたと見据えてくる視線の静けさは、その可能性を悲観するというよりも、あらゆる未来の可能性を視野に入れておかんとする慎重さを現してのものだろう。そう、未来へ進まんとするものは、こうでないといけない。
あらゆる可能性を考慮し、その中で最善を選び取る。それを理解しているならば、きっと望美はいかな決断であってもヒノエの選択を否定はしない。確信に得た満足感にそっと瞳を和ませ、ヒノエはだからもう少しだけ、己の内にしまい込んであった情報を差し出してみせる。
「それだけはないよ。安心しな。まあ、仮にそういう結論に至ったとしても、“ヒノエ”としての俺は姫君の八葉だよ」
それで許してくれるかい。そう問うて小首を傾げたヒノエに、望美はふわりと微笑む。
「そっか……。ありがとう」
その笑みは、何よりも安堵を前面に押し出した笑み。まるで悪夢から覚めたような深い安堵を醸し出す理由はヒノエにはわからない。ただ、何も憂わなくていいはずの異界からの客人にそんな目をさせてしまう自分達の世界が、少しだけ情けなかった。
Fin.