朔夜のうさぎは夢を見る

ねむれるこちょう

 目的地まではもうさほどの距離もない。時間という意味でも、距離という意味でも、それゆえに周囲にありえる耳目の存在という意味でも。もはやこれ以上の問答は慎むべきだろう。そう思う一方、満足を得られる会話だったという実感がヒノエの胸にはあった。
 生半な覚悟ではないのだと、自分の為していることの矛盾などとうに知り抜いているのだと。言葉のみならず訴える気配はそのすべてが鋭く、いっそ清々しく、心地良い。
 それきり口を噤んで足を動かしていた二人だったが、目指す邸の門扉が視界の隅に入ったところで足を止めたヒノエは、もうひとつだけと言って同じく足を止めたを振り返る。
「アンタは、何が欲しいんだい?」
 ヒノエの後ろをまったく同じ歩調で歩いていた時と寸分のぶれもなく。ぴったり一歩半の距離を保った場所で、はたりと瞬いてからは淡い笑みをまなじりに滲ませる。
「先へと繋がる未来を、欲しています」
 残酷な問いかけだと、そう思って少しばかり居心地の悪い思いをしているヒノエの内心などまるで知らないといった様子で、は穏やかに声を紡ぐ。
「時流は止められません。平家の興亡は、あるいはこの、時代の転換点に必要とされた露払いだったのだと、知盛殿はそうおっしゃっていました」


「アンタも、そう思うわけ?」
「ひとつの時代の終焉が今なのだと、その見解には同意しますし、それは受け入れましょう」
 まるで他人事のように語られたことに疑問を覚え、思わず問い返したヒノエには至極あっさりと首を縦に振る。そして、それと同じ瞳で頬には凄絶な笑みを刻む。
「けれど、それによってわたしの大切な方々が終焉を押し付けられるというのなら、わたしはその終焉にこそ刃を向けます」
 だって、わたしは神ではないから。嘯きながらはそっと胸元に手を置き、何かを思い起こすように瞼を落とす。
「わたしを慈しんでくれた方にこそ、穏やかなる道行きをと願います。それを阻むなら、大義など、時流など、そんなもの――斬り捨ててしまえばいい」
 ひどくゆったりとした瞬きの向こうに覗くのは、獰猛な笑み。大それたことを言ってのけたくせに重みを感じさせない軽やかな声は、その落差ゆえに覚悟の深さと思いの激しさをまざまざと描き上げる。
「きっと、既に先触れはあるのでしょうけれど。改めて、あなたがお会いするのは還内府殿その人であると、わたしもまたここに保証しましょう」
 似ていると、そう思い描いたのは相反する二つの面影。彼女の主たるかなしい青年と、彼の守護すべきかなしげな神子。なのに、そんなヒノエの思考を断ち切るように、はあっという間に微笑を繕いなおす。


 ふと表情を緩め、はいたずらっぽい笑みを浮かべながらそっと声を潜めて囁いた。
「あの方は、そういう方です。ですから、どうか目指す道の姿を、疑うことなくまっすぐにお聞きください。その上で、現在の熊野を守るために、未来の熊野を守るために、最善とあなたの見極めた道をお選びください」
 くすくすと喉を鳴らし、くすぐったげに瞳を眇めて遠くを見やる様子をみせてから視点をヒノエの瞳に据え、は厳かに告げる。
「願わくば、その道が還内府殿達の目指す道と重なることを、祈っています」
 それはまるで、神意を告げる巫女。思いがけず底の知れない空気に曝され、ヒノエは呑まれないようにと丹田に力を篭めてから、湧き起こった、あるいは卑屈ともとられかねない疑問を舌に載せる。
「アンタは、アンタの欲しい未来のために、平家に味方しろとは言わないのかい?」
 の物言いは、静かで公平で、そしてどこか他人行儀だった。源氏も平家も、どう考えても熊野というこの一大勢力を取り入れたくて仕方がないだろうことは明白なのに、源氏につくならそれで構わないとでも言いたげな、どこか突き放した物言い。覚えのある姿勢だと思う一方、ならばこそその思うところを問うてみたいというのもまたヒノエの本音。
「熊野水軍の力は、別にいらない?」
「そうではありません。ただ戦力をという意味でしたら、何が何でも手に入れていただきたいと思います」
 拗ねた空気を纏って言葉を織り上げれば、困惑を載せた表情が首を横に振る。


 へそを曲げたとでも思ったのか、どこか宥める色を濃くした声と表情で、はゆっくりと言葉を胸の内から掬い上げている。
「たとえば、この場であなたを脅してもいいでしょう。太刀がなければ戦えぬなどと思わないでくださいね」
 小首を傾げる様子は、ヒノエが察している年齢よりもよほど幼く、いっそあどけなくすらあったが、言葉の物騒さがその中身を見誤ることを許さない。
「術封じをかけておいでのようですけれど、ご存知でしょう? 力による束縛は、より強い力によって打ち砕くことが可能だと」
「破れるのに、そのままにしているって?」
「この呪縛はわたしにとっても都合がいいですし、無用な騒ぎは欲しくありませんから」
 くすりと笑って景時の努力をあっさり飛び越え、は淡々と言葉を積み上げる。
「ですが、熊野のこれまでの在り方を見ていれば、そんなことは言えません」
「平家に楯突いて、のされた過去があるのに?」
「それは先代の頃のお話でしょう? 少なくとも、あなたが別当となってからの熊野は、ただひたすらに熊野が大切で、熊野に生きる人々を守り、その未来を守ることを第一義としています」
 どこまでも慈愛に凪いだ穏やかな表情が、眩しげにヒノエを見つめる。
「それはだって、わたしが一門の皆様に対して願うことと同じ姿勢ですもの」


「……それが、理由?」
「ええ。あなたの願いにわたしの願いを、あなたの生き様の向こうにその体現された理想を見ればこそ、そんな失礼なことは、決してできません」
 告げるは、本当に穏やかな表情を湛えていた。小さく、けれど己が息を呑む音が確実に自身の耳朶を打ったことに、しかしヒノエは舌打ちを零す気にはならない。
「わたしは、その信念を貫き、実現しているあなたのことを羨み、そして尊敬していますから」
「ずいぶんな評価だね。絆そうって?」
「絆されてくださるならありがたいですけれど、そんな愚を犯すような方ではありますまい」
 ようやく紡いだ混ぜ返す言葉には、おどけた物言いでのさらなる高評価が返された。
 もはや完敗である。完全に相手の調子に呑まれた自分を認め、ヒノエは諦めとも感嘆ともつかない溜め息を深々と胸の底から吐き出す。
「あー、ホントにいいオンナだね」
 目許を手で覆い、天を仰いでからしみじみ呟くのは偽らざるヒノエからへの評。単なる勇ましい姫将軍かと思えばそれだけでなく、敵味方を問わず癖者と名高い男を手懐ける策士かと思えば決してそうではない。ただ、これが彼女という一人の人間の在り方なのだ。
「惜しいことしたな。拾った時に言い訳つけて隠せばよかった」
「お褒めの言葉、ありがたく頂戴いたします」
 素直に悔いの言葉を差し向ければ、けろりと受け流すしたたかさをみせる。そうしてどちらからともなく笑いあう二人は、門扉の向こうから呼ぶ少女の声にようやく、止めていた足を動かしはじめた。

Fin.

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