朔夜のうさぎは夢を見る

ねむれるこちょう

 警戒心を誘発させず、けれど妙な親近感を覚えさせる距離を自然に取るのはさすがといったところか。くるりといたずらげに瞬いた瞳は、芝居がかった調子で悲しみを刷く。
「姿が見えないってんで探してみれば、こんなところでこんな危ない親父を相手にしてるなんて。無防備にも程があるよ」
「おいおい、オレはせっかくの賓客を放置しているどっかの馬鹿の代わりに、丁重におもてなしをしていただけだぜ?」
「へぇ? 清水の一杯だけで、おもてなしねぇ」
 笑い混じりにかけられた、こちらもやはりすぎるほどの芝居がかった声にちらと流し目をくれ、ヒノエはわざとらしくため息をついてから「さ、戻ろうか」と話題を切り替える。
「九郎達はもう戻ってるよ」
「……もしや、もう出立でしょうか」
 無駄を嫌うというか、九郎は何かにつけてせっかちなきらいがある。もし既に交渉が終結しているならば、一刻も早く京へと戻りたがることだろう。そう考えて多少慌て気味に裾を捌いたにあわせて立ち上がりながら、ヒノエは仄かに苦笑を送る。
「いや、別当の返答待ち。しばらく滞在するって話だ。慌てなくていいよ」
 それと、本宮を見て回りたいんなら、オレが改めてちゃんと案内してやるから。ひょいと肩を竦めながら軽い調子で請け負い、そしてヒノエは座ったままにやにやと二人を見上げる湛快をじっとりとねめつける。
「余計なことするなよな」
「オレはなんにもしちゃいないぜ? ただ、いいオンナを見つけて口説かないってのは、熊野の流儀に反する」
「あんまり節操ねぇと、いい加減、母上に愛想尽かされるぜ」
「あれはそんなに狭量なオンナじゃねぇよ」
 ぽんぽんと軽口を叩きあう姿は、一見険悪ながらも気楽な空気が漂っている。しばし唖然と見やってから、は口の中で「あ」と呟いて瞬きを繰り返す。もはや埒が明かないとでも判じたのか、急かすようにして退出を促すヒノエに従いながら、湛快に送る会釈に仄かな笑みが滲むのは隠しようもなかった。


 慣れた調子で招かれた時とは違う道順を案内され、いつの間にか移動させられていた草履に足を入れる。そうして二人は、のんびりと緑の色濃い本宮の建物の合間を縫うようにして歩く。
「そういえば、アンタには聞いたことがなかったね」
 迂回路を辿っているのだろう。見知らぬ道を、ただ導かれるままに足を運んでいたの前を歩きながら、ふと静寂を破ったのはヒノエだった。
「どうしてお前は戦場に出ることを選んだんだい?」
 梢の合間から降る陽光と蝉時雨の只中で、しかしその言葉はひどく静かにの耳に届く。
「お前は何のために戦うんだい? どうして平家に味方したんだい?」
「そこに、知盛殿が参られるからです」
 揺るぎなく歩み続ける背中に焦点を絞って、は声を放つ。
「知盛殿は、わたしに生きる場所と帰る場所を与えてくださった方。そして、わたしは知盛殿の眠りを預かり、背を預かることを許され、それをまっとうすることを誓いました」
 声は返らない。振り返りもしない。そしては、ヒノエに見定められている己を知っている。
「ゆえ、知盛殿が戦に出られるのなら、わたしも参ります。見誤らず、見失わず、この手の届く場所で生きるために」
 足を止め、呼吸をひとつ。
「その誓いを違えないためになら、わたしはどこにだって参ります」
 もう、手は届きませんけれど。そう小さく自嘲の笑みを刷き、けれどすぐさまその頼りない空気は苛烈な覇気に塗り替えられる。


 よりも三歩先まで進んで立ち止まったヒノエは、まだ振り返らない。
「平家は知盛殿が慈しまれる場所。わたしを受け入れてくれた、わたしの愛する場所」
 そっと張り詰めていた声をやわらげ、は視線を伏せた。剣を、鎧を取り上げられ、衣は朔からの借り物。もはや物的な繋がりは何もないに等しいが、こうして今も血の通う指先こそが平家で生きていた証。
「ゆえにこそ守りましょう。そのためには戦いましょう。たとえどれほどの血に濡れようとも、罪にまみれようとも、誰かの願いと祈りを踏みにじることになったとしても」
 剣を握れどもその痕跡を残さない、頼りなく細い指先。しかし、その指先が握った柄の先の刃で、もはや数え切れないほどの命を屠ってきた。我欲と覚悟の向こうに繋いだ希望を信じて、いかな咎に堕ちようとも譲れない道のために。
「わたしにとっては、わたしが守りたいと願ったすべてを守ることこそ、譲ることのできない真理ですから」
 声が蝉時雨に溶けるのを待ってから振り返り、ヒノエはまっすぐに己を見据える蒼黒の双眸を見返す。
 告げられた覚悟は透明で、決意は清廉だった。なるほど、あの癖者が傍に置くだけのことはあると、理解を超えた納得を齎す潔さ。この清しさと一途さは、宮中にはびこる狐狸の只中を渡り歩く彼にとって、手放しがたい清涼さであったことだろう。そう、素直に思う。
「それは、熊野を守らんと奔走するあなたとて同じなのではありませんか? ――熊野別当、藤原湛増殿」
 そして告げられた謡うような言葉に瞬間目を見開き、それからほろりと相好を崩す。


 わずかに傾けたヒノエの首に呼応するように、は小さく口の端を吊り上げる。
「知ってたんだ?」
「お父上にお会いして、そうではないかと察しました」
「……そう」
 言って見返す瞳は静かに凪いでおり、じっと時流を見据える覚悟に濡れている。すべてを受け入れ、けれどその中に甘んじるのではなく精一杯に抗うのだと、無言にして宣する、いっそ厳粛とさえ称せるだろう深い瞳。
 その底知れぬ、無明の闇を思い起こさせる瞳の奥深さが、本当に似ている。そう記憶を手繰った先には、かつてヒノエの飾らぬ評に対して、らしからぬ慈愛に満ちた笑みを向けた、倦怠と諦観に沈む青年の瞳が静かに佇んでいる。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。