朔夜のうさぎは夢を見る

ねむれるこちょう

 熊野は後白河院とはまったく別の意味で源平の双方に係わりを持つ。当代の別当がどんな人物であるのかをは知らないが、目の前に座る先代の様子からして、相当な若年者であることは確かだろう。ならば、当代が先代に何かしらの相談を持ちかける可能性は存分に。他言無用を宣したに等しい湛快だが、これが一種の駆け引きであることは、暗黙の了解でもある。
 ぴりぴりと緊張の糸を張り詰めさせるの様子を興味深げに見やってから、湛快はゆるりと唇を解く。
「まだるっこしいのは嫌いだ。単刀直入に聞くぜ……。かの御仁の思惑は、いったいどこまでが本気なんだ?」
 笑みを湛えてさえいる口元とは裏腹に、声は静かな緊迫感に満ちていた。
「思惑、とは? さすがに、それだけでは察しをつけかねます」
 しかし、あまりにも焦点をぼかしすぎた問答ではでもついていけない。かの御仁とは、即ち知盛のことだろうからそれでいいが、思惑の内容がわからない。困惑を滲ませて小首を傾げれば、それこそ困惑の表情を浮かべて湛快は続ける。
「……和議を結びたいってぇのは、本気なのか?」
 それは、にとっても初耳の話だった。


「俺はヤツが赤子の頃から見知っているがな、これは実にらしくねぇ」
 息を呑み目を見開くことは堪えたが、代わりに瞬きを二つ返していた。そのまま続きを待つ姿勢を示したに、諦めたように大きく息を吐いてから湛快は愚痴とも説明ともつかない言葉を綴る。
「どっちかっていやぁ、ずるずると引き摺るぐらいならばいっそ潔く滅んじまえって考える口だろ」
 その推察にはも大いに同意する。決して薄情なわけではないのだが、知盛は極端な結論に思考を帰結させ、それを行動に移すきらいがある。権勢に執着する人々を冷めた、あるいはいっそ蔑みさえ孕んだ視線で睥睨している。そしてそれを隠そうともしない知盛が一門の辿る先を滅びへと定めることは、ある程度以上“平知盛”という人物を理解している人間からすれば、ごく当然の推測であるともいえるだろう。
「かといって、たばかっているにしちゃ規模がでかすぎる。ヤツの考えていることが、さっぱりわからん」
 そして、だからこその湛快の疑問を、は抱かない。は、知盛が行き着く先と見定めただろう滅びの向こうに見つけた希望の存在を知っているから。だから、首を捻る湛快が感じているだろう矛盾を知らない。
「ヤツは、本気で和議をならせるつもりなのか?」
「わたしには、わかりません」
 ようやく本題へと戻ってきた問いかけに、今度はあっさりと答え、は仄かに笑みを返す。


 知盛が将臣の示した未来図を掴むことに尽力しているのは知っていた。将臣が目指すのが、一門の者を一人でも多く生き残らせる未来であることも知っていた。その理想の形として掲げているのが和議の成立であることも知っていた。だが、そのために知盛が積極的に何かしらの働きかけをしている姿は知らない。だから、には知盛の真情まではわからない。それでも。
「ただ、わたしは知盛殿が、周囲の方にそうと見せていらっしゃるほど冷たい方ではないことを知っています」
 朗らかに、穏やかに。慈愛を湛えた声を紡ぎあげるの瞳に揺らぎはない。
「守ると、そう決められた以上、たとえ不本意な選択でも不愉快な決断でも、知盛殿は過たず道を定めるでしょう」
 それは信頼の姿。許された時間を、許された場所で過ごすことでが築き上げた、知盛という存在への敬意。どれほど定めようとも揺らぎを殺しきれない自分と対比すればこそ、その意志の強さと貫く姿勢の潔さに素直に憧れた。そして、それゆえの執着の薄さに恐怖してきたのだから。
「そうやって、道を貫くだけの強さをお持ちだということを、よくよく知っています」
「清盛公に逆らうことになってもか?」
「世界を敵に回そうとも、成すと定めたからには為されましょう」
「大層な信用だな」
「今のわたしにお返しできるのは、余すことなき信頼のみですから」
 傍にいると誓ったのに、帰ることさえできなかった。だから、捧げられるのはもはやささやかな手回しと、尽きることない思いのみ。願いを、祈りを、すべて注いでは微笑む。


 知盛の腹心と、そう名を冠される以上、その名にもとる行為は選ばない。ゆえに、逃げ出して帰りつくことはありえない。けれど、たとえ離れても、そのすべては知盛のためにと誓ったから。彼の道を手探りで模索して、今の場所から成せるすべてを為すことで、誓いを破ったその埋め合わせを、たとえ誰に知れずとも、しかと成し遂げたいと願うのだ。
 の静かな言葉をじっと受け止め、そして湛快はからりと笑った。よく似た主従だなと笑い、見上げた絆だなと笑った。
「まったく、アンタいいオンナだな。どうだ、うちの倅の嫁にならねぇか?」
 けらけらと笑いながら繋げられた言葉は、実に気安いもの。そんな大変なことをこんな、その場の勢いだけで言っていいものだろうかと疑問に思う一方、は妙な納得を得る。なるほど、熊野の男は実に女あしらいに長けたことである。
 ヒノエに対する後白河院の揶揄には、こういう根拠があるのだろう。今さらながらに理解しながら、さてどう切り返したものかと思考を回転させる背中に、ふと明るく華やかな気配が湧く。
「それは魅力的な話だけど、惚れた相手は自分で口説くよ」
 言って濡れ縁から顔を出したのは、赤髪の青年。そのまま断りの文句さえなく部屋に立ち入ったヒノエは、呆れもあらわな様子で大仰に肩を落とし、の顔を覗き込むように膝をつく。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。