朔夜のうさぎは夢を見る

ねむれるこちょう

 さすがに水軍の所属ともなれば勝手が違うのか。本宮に着くなり姿をくらましてしまったヒノエは、夕餉の席に顔を出して熊野別当との面会日時を告げたきり、その夜は宿に戻ってこなかった。九郎に同行していた全員の同席が許された別当との面会であったが、は体調の不安を言い訳に、早々に欠席の許しを獲得していた。
 あらかじめ文を送ってあったらしい面会の申し込みに応えての別当からの指定は、到着から三日後の昼。前日の夜遅くまで打ち合わせをしただけでは物足りなかったのか、朝も早くから九郎は弁慶と景時と額をつき合わせて念入りに交渉の準備を重ねているようだった。機密にも関わることであろうからと部屋にさえ近寄らなかったの許に、朔がこれから出かけてくると声をかけに来たのは、太陽が顔を出してから中天にかかるまでのちょうど中間ぐらいの頃。
「本当に、ひとりで大丈夫?」
「心配いりません。せっかくお許しもいただけたのですし、あとで少し、近くを歩いてみるつもりですから」
 それは、案内にとやってきた水軍の者と名乗る男からもたらされた別当からの伝言だった。いわく、本宮の森は神域だから、その清浄な空気を存分に浴びるといいとのこと。


 実際、九郎の傍に置かれることになったきっかけの一件以来ずっと必要以上に抑えてきた身の内の人ならざる力が、ひどく穏やかに凪いでいるのは熊野に踏み込んでから感じていることだった。本宮ともなればその効力は絶大。許しを得られずとも、適当に散策をしてみるつもりはあったのだ。
「そう? でも、無理だけはなさらないでね」
「大丈夫ですよ」
 何度も念押しをされる理由は、無論わかっている。これまで、の傍には必ず朔がついていた。同性の彼女が傍にいることにどれほど救われてきたか、自覚を持てないほどは鈍感ではない。
 将臣のことに気を張っていただけかと思っていたが、どうやら無意識の状態で異性と道を同じくするこの旅に疲弊していたようなのだ。本宮に着くなりほぼ強制的に寝かしつけられてみれば、次に目を覚ましたのは翌日の昼だったのだから言い訳はきかない。そして、その間の寝所に望美と朔以外の誰も、薬師である弁慶でさえ寄せ付けられなかったのだから、恐らく朔あたりから見れば原因は明白だったのだろう。
 ひどく大人びてはいるが、朔はよりも年下である。なんだか色々なものが逆転しているような気がして複雑な心境でもあったが、気遣いはありがたく受け取るのがの信条である。
「さあ、もう行かれませんと」
「ああ、本当だわ」
 見送りに立ったとその傍に残る朔を除き、一行は既に門へと移動をはじめている。
「お気をつけて」
 慌てて距離を詰める朔を微笑ましく見やり、それからは小さく頭を下げた。


 さて、と思考を切り替え、出歩きやすいよう簡単に身繕いをしてから、もまた仮宿を後にした。そもそも動くのに支障があるほどの体調不良ではなかったが、せっかくなので出来る限り調子を整えておきたい。木陰を求めてゆっくりと足を運びながら、清浄な気配に満たされた空気を胸に満たす。
「よう、嬢ちゃん。ひとりかい?」
 ついでに、本宮なのかそうでないのか、よくわからないながらも壮麗な建物を仰ぎ見て歩いていたは、ようやく声をかけてきた男を振り返って微笑む。
「連れがいないことは、存分にお分かりいただけたと思いますけれど?」
「そうだな。じゃあ、こっちでオレと少し話でもしようぜ」
 これでもこの辺には詳しいんだぜ、と。笑い、周囲の空気をさざめかせるのは赤い髪を無造作に束ねた壮年の男。気配を隠すつもりもなく、姿をみせずにずっと観察する視線は、散歩をはじめてほどない頃から背中に感じていた。八葉ともまた違う眩く圧倒的な気配の持ち主である男は、その尾行を看破していたと暗に語るの言葉には一切の頓着をみせず、屈託なく笑って本宮とおぼしき建物を指し示す。


 招かれるままが通されたのは、実に立派な邸宅だった。本宮の奥に位置しているらしいそこは、たちの仮宿とはちょうど真裏にあたるのだろう。
「奥の泉から汲んできた霊水だ。下手な薬湯よりもいいだろ」
「何でもお見通し、と?」
「ははっ、そういうわけにはいかねぇけどな」
 供された椀をありがたく受け取り、一口含めば清涼な気配が神経を駆け巡る錯覚に陥る。さすがに霊験あらたかなる地は違うと、感慨を胸に沈め、しかしは気を抜かない。
「ああ、自己紹介がまだだったな。オレは藤原湛快ってんだ」
「……先代の別当殿であらせられましたか」
 告げられた名前は、予想以上の重さを持っていた。気配からして只者ではないと踏んでいたが、せいぜいが当代別当の配下であろうとあたりをつけていたのだ。よもや、先代が直々に声をかけてくるとは。
「おいおい、驚くのはオレの方だぜ? まさか、あの月天将が、お前みたいな娘さんとはなぁ」
「知っていて声をかけられたのでは?」
「知ったのは最近だからな。この目で見るまで、正直なところ冗談だと思ってたんだが」
 本当だったんだなぁ、と。しみじみを眺めてはしきりに感心していた男は、ふと真顔に戻って眼光を鋭く研ぎ澄まさせる。


 面に浮かぶ人を喰ったような笑みが鳴りを潜めれば、そこには最強の呼び声高い水軍を束ねていた男の圧倒的な威厳が際立つ。呑まれないよう意識して呼吸を深め、背筋を伸ばしては続く言葉を待つ。
 何かしらの形で熊野側からの接触があるだろうとは読んでいた。月天将の名は、源平の双方だけに価値があるわけではない。熊野にとってもまた、十分に活用する甲斐のある名。そして熊野は、月天将にとっても源氏や後白河院よりは交渉の余地ありと見なせる相手なのだ。
「まあ、ある程度予想はしてるんだろうがな。ちょいと、月天将殿に聞きたいことがある」
「それは、熊野のために? それとも、源氏のために?」
「……ああ、なるほど。確かにお前は“月天将”だな」
 返答如何では答えることなどないと、ひたと見返して言外に言い切ったに、湛快はわずかに目を見開いてから笑う。
「安心しな。熊野がどうするかはオレの知ったこっちゃないが、これはオレ個人からの質問だ。たとえ別当に命じられても、何も言わねぇよ」
「答えられることでしたら、お答えしましょう」
 藤原湛快個人として、平知盛の腹心である“月天将”に問いたいことがあるのだと。そう告げた湛快に、は静かに頷く。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。