さざめくしじま
それは、見るものが見ればさすがと感嘆の息を零したくなる、実に流麗な動作だった。武門でありながら貴族としての頂点を極めた、その実は決して空虚なものではなかったのだと。立ち居振る舞いの端々に滲むのは、彼女が送ってきたのだろう雅やかな時間の積み重ね。
「源九郎義経様に、ございますね」
すいと、下げられていた顔が持ち上げられ、ただ静かな視線が過たず九郎に据えられる。
「本日より、お傍仕えとして控えるようにとうかがいました」
「ああ。妙な真似をすれば即座に処断する。覚悟はいいだろうな」
「九郎……」
当たり障りのない挨拶に、九郎はまっすぐに向き合って鋭い眼光を投げ返す。それは実に九郎らしい反応で、淡く苦笑が滲む空気の中、しかしその挨拶はさすがになかろうと、弁慶が窘める声を上げるが、当の娘はごく自然にひとつ頷く。
「仮にも軍場に立つ身なれば、いつなりとこの命を散らす覚悟はできております。その上で、捕虜となった以上、我が身を捕らえし御方の意向に逆らうつもりはありません」
「……俺が、お前に理不尽な文句をつけて、それで処断すると言っても、では逆らうことはないと?」
「逆らいはしません。ただ、その人品を卑しきものと、蔑みを抱えて泉下に降るのみ」
ついと、わずかに吊り上げられた口の端は、ただ静かな笑みを湛えていた。穏やかであり、不敵でもあり。小さく笑みを孕んだ声にぴくりと眉を跳ね上げ、はらはらと見守る視線の中で、九郎は深々と息を吐き出す。
「その物言いは、咎められるに値するぞ」
「では、先ほどのような物言いはなさいませんよう、お願い申し上げます。矜持を傷つけられて不快なのは、御身のみに限らぬことと覚えおかれませ」
ぴりぴりと張り詰める空気の中、微塵も堪えた様子をみせずに切り返し、娘はふと真顔に戻る。
「理不尽も、辱めも、すべて甘んじて受けましょう。それが捕らわれし者の結末。お好きなように、なさいますよう」
言って再び頭を下げた娘は、今度は額づいたままぴくりとも動かなくなった。
呆気にとられた表情でその後頭部に視線を落としていた九郎のわき腹に、小さく溜め息を落としてから弁慶が軽く肘を入れる。びくりと跳ね上がった肩が落ち着きながら文句を言おうと振り返るのを、苛立ちを如実に湛えた双眸が無言で切り捨てる。
「顔を上げてください」
そのまま視線をずらし、やわらかな声がそう促しても娘は動かない。ますます苛立ちを篭めてもう一度弁慶が九郎のわき腹を小突けば、今度はその意図を正しく把握した声が渋々追従する。
「顔を」
その一言に応じて再び背筋を伸ばした娘に、あらゆる種類の視線を浴びながら九郎はぽつぽつと言葉を与える。
「あー、その、なんだ。お前の覚悟は、よくわかった」
「なれば幸いと存じます。……差し出た口を申しました」
すぐさまいらえてもう一度頭を下げなおし、姿勢を正して娘は九郎の言葉を待っている風情である。
「皆の名は聞いているか?」
「はい。簡単なご説明と共に、弁慶様から」
「“様”はいりませんよ」
すかさず口を挟んだ弁慶に、困惑を滲ませる視線が流されたが、大きく頷いて九郎もそれに追随する。
「そうだな。俺はお前が捕虜だからこういった扱いをするが、月天将のことは高く評価している。その相手に、“様”などつけて呼ばれたくはない」
「……御大将と?」
「九郎でいいぞ」
ともすれば痛烈な嫌味に聞こえる一言を実にあっさりと受け流し、あっけらかんと笑った九郎に娘は瞬きを二つ。
「では、九郎殿とお呼びいたします」
「ああ。で、お前の名は?」
いささか呆然とした風の声は、続けられた問いを前に静かに息を呑み、何かに迷ってからゆるりと紡ぎ上げられる。
「、と申します」
告げる声に滲んだ覚悟と哀切に、しかし九郎は気づいた風もなく、ただ真っ直ぐに笑って「よろしくな」と返すばかりだった。
総大将の傍仕えという体裁を繕いはしたものの、そもそも人を傍近くにはべらせる生活に慣れていない九郎の性格に加え、捕虜という立場もその仕事を阻み続ける。結果として、は主に黒白の龍の神子と一緒くたにされておくことが多く、当たり障りなく言葉を交わしながら、単なる旅路の同行者として熊野路を行く現在の状況に至っている。
「さーん!」
「望美、あまり急かすものではないわ」
「構いませんよ、朔殿。すぐに参ります」
湯煙の向こうからきらきらした声に誘われ、脱ぎ去った衣を手早く畳みながらはほんのり笑い返す。源氏の御旗印として兵達から信仰にも等しい視線を浴びているくせに、敵味方といった感覚がどうにも薄いらしい。旅路の中で、こと白龍の神子がに懐くのは、とても早かった。
捕虜として捕らわれた以上、いかな扱いにも文句を言うつもりはなかったが、だからと言って情報をべらべらとしゃべるつもりも毛頭ない。はじめのうちは、これもまた新しい弁慶流の懐柔策なのかと警戒したものだが、どうやら純粋に、望美はに興味を持ったらしい。
そうと知れてしまえば、余計なことを言わないよう気を配りながらも、にしてみれば望美は懐かしき遠く隔たった時代の空気を肌で知る存在である。共有する時間が長いこともあり、のんびりとおしゃべりに興じていれば、その仲が深まるのは言わずもがなというもの。
Fin.