さざめくしじま
眠りの縁から追い出される瞬間は、自由落下の衝動に似ている。
唐突に足場を失い、寄る辺を失い、ただ、身ひとつで奈落まで突き落とされる。
だから、目を覚ましてまずはじめに、自分を枕にして穏やかに寝息を立てている気配と、その相手が己の身を包むぬくもりと、ついでに寝具に焚き染めたそれと混じりあってしまった伽羅香を感じることのできる自分の境遇が、はとても好きだった。
告げることはなかった。それは、告げることによって、せっかくの息抜きの場に重く意味を持たせることが嫌だったから。告げることによって、その重みを厭われることが怖かったから。
ただ、そろりと息を吸い、ゆるりと睫を上下させ、四肢に感覚を飛ばすことで確認できればそれでよかった。また自分の知らないうちに自分が世界から切り離されてしまうのではないかと。常に身を脅かす不安と恐怖を包み、霧散させてくれる圧倒的な存在感を感じていられることに、いつも、心の底から安堵していたのだ。
突き落とされる感覚の向こうで、意識の浮上を自覚する。白む視界。広がる聴覚。けれど、寝覚めの向こう側にある安堵だけが存在しない。
そっと押し開いた瞼は、飛び込む光の思わぬ強さにすぐさま下ろされた。何度か瞬きを繰り返し、ようやくは日がとっくに昇りきっている時間帯であることを知る。
「……ッ!?」
大慌てで身を起こし、ありえない失態に蒼褪めながら身支度を整えようと几帳の向こうにあるはずの唐櫃を振り仰いだところで、ようやくその必要がないことと、己の置かれた空間への違和感を認識する。見覚えのない几帳に、馴染みのない空気。本来ならばあてがわれることもありえないはずの、質素ながらも決して粗末ではない褥。
自分の身に降りかかったことをそっと思い返しながら、指で表面を辿る体はしかし、既に十分に回復を遂げていた。動かす分に違和はなく、このまますぐにも戦場に立てると断言できる。もっとも、一月以上の時間を最低限の粗食と冷たくて硬い土の褥で過ごしたのだ。凍死しない程度の衣は与えられていたし、傷の手当の一環としてだろう、体を清潔に保つ術も与えられていた。それでも、それなり以上の消耗は、むべなるかなというものだ。
思いがけない好待遇を受けるに至ったのは、素直に幸運だった。可能性は知っていたし、覚悟は決めていた。それでも、実際に遭遇した衝撃は、想像以上のものだったというだけのこと。
「失礼します。起きていらっしゃいますか?」
つらつらと物思いに耽るその思考の合間に、するりと滑り込んできたのはやわらかな低音。慌てて上掛けに供されていた衣を羽織って体裁を整え、は声の震えを押し殺しながら「どうぞ」と小さくいらえる。
御簾を潜って姿を現したのは、柔和な笑みを浮かべた薬師の青年だった。
そわそわと髪先をいじったり袖を摘まんだりしては部屋の外へと視線を流す望美に、九郎はついに「おい」と呼びかけた。
「少しは落ち着いたらどうだ」
「落ち着けませんよ」
呆れ交じりの諌め文句にけろりと言い返し、望美は髪をいじるのをやめて再び袖を摘まむ。
「だって、人間、第一印象が肝心なんですよ? みっともない子だなぁ、なんて思われたくないじゃないですか」
「だったらまずは落ち着け。このままなら、お前は落ち着きのない娘だぞ」
「でも!」
「はいはい、そこまでにしてくださいね」
実に冷静に入れられた指摘にむくれながら反論しようとした望美は、さらりと割って入る声にぱっと振り返り、期待に満ち満ちた視線を注ぐ。
「弁慶さん! どうでしたか?」
「問題はありませんよ」
腰を下ろすのさえ待ちきれないとばかりに身を乗り出す望美にやんわりと笑いかけ、弁慶は九郎に向かって小さく顎を引いてみせる。
「傷ももう大丈夫ですし、ご理解も得られました。景時には負担をかけてしまいますが」
「んー、それはどっちにしろだからね。大丈夫だよ」
「では、そういうことで」
結局、一度も目覚めることなく眠り続けた月天将の看病を望美と朔が弁慶に譲ったのは、夜もそれなりに更けてからのこと。そのまま傷の診察だの状況説明だの、すべてにおいて適任であろう弁慶に後のことを一任し、一同は日常の中に戻りつつあったのだが。
「とにかく皆さん、打ち合わせどおりにお願いしますよ?」
「任せてください!」
「……善処しよう」
その中に新たな面子を加えるにあたり、弁慶の不安はひたすらに、寡黙な鬼を師と仰ぐ兄妹弟子にあるのだった。
ありとあらゆる可能性に無難に対応するために、弁慶の用意した筋書きは単純にして明快。すなわち、捕虜とした娘を気に入った九郎が、自分の世話役として使うことにした、というものである。捕虜の行く末としてはさほど珍しいものでもないし、九郎が、ひいては龍神の神子と八葉が彼女を傍に置いておく表向きの理由としても体裁が繕える。
たかが一人の将を相手に、その力の得体が知れないからと見張りを投げ出しただの、そんな事態に陥る原因になった事情だの、都合の悪い部分を一切合財奇麗に包み隠して辻褄を合わせる、実に便利な方便なのだ。
薄々と察しているだろうに、聡い敵将は何も言わず、弁慶の示した筋書きに頷いてその待遇を受け入れていた。万一のことを考えて景時による束縛の術を常にかけた状態にはなるが、それ以外の面では生活環境の改善を含め、彼女に否という理由はなかっただろう。
八葉の傍にあるということは、敦盛の傍にあるということでもある。敦盛は過ぎるほどに生真面目なきらいがあるから、逃亡の手引きをすることもないだろう。ついでに絆されてくれれば万々歳という程度で、常に目の届く範囲に置いておけるというこの状況は、弁慶にとってはむしろ願ったり叶ったりでもあるのだ。
食事と薬湯を与え、ついでに状況を説明した上で着替えを置いて退出してきたのだが、どうやら身繕いが終わったらしい。教えたとおりの方向からやってくる静かな衣擦れの音に、気配の察知に長けた面々はそれぞれに視線をめぐらせる。そして、様々な思惑を秘めた視線が降り注ぐ中に姿を現したのは、水干を身につけた、ごくありふれた一人の娘。視線の雨に臆することなく、洗練された所作で袴の裾を捌き、娘は音もなくその場に膝をついて静かに一礼を送ってみせた。
Fin.