朔夜のうさぎは夢を見る

さざめくしじま

 首を傾けてくるりと視線を流せば、程なく違和感の正体は知れる。
「景時、アンタの妹君はどうしたんだい?」
 へらりとした軍奉行の発言に、間髪置かずに飛んでくる叱咤の声がなかったのだ。よく見れば、望美と白龍の姿もない。確かに彼女らは源氏軍に同行してはいるが、従軍しているわけではない。そう考えれば不思議なことでもなかったのだが、いかんせん、これまでの彼女らへの扱いがその言い訳を裏切っている。何がしかの理由で、故意に席を外させているのだ。
「何か、姫君たちの耳には入れにくい事情かい?」
 そして、一概に軍に関することだと言い切るには、軍の中枢やら機密やらに関わるべきではないだろう譲やヒノエの同席を許しているという違和感が際立つ。どうにもきな臭いことだと、薄く冷笑を浮かべて畳み掛けたヒノエに、困ったような眉尻を下げた笑みを湛えて、景時が応じる。
「いやぁ、実はちょっと、困ったことがあってね」
 何から説明したものかと、言葉を濁して視線をさまよわせる先には敦盛がいた。身に覚えがないらしく困惑の表情を浮かべる敦盛の隣で、しかしヒノエには思い当たる節がある。
「月天将のこと……かな?」
「……ッ!」
 低めた声での問いに続いたのは、敦盛の息を呑む音。見開かれた瞳をちらと横目で見やれば、そこに滲むのは深い哀切。ついでにあからさまに不機嫌になった九郎の雰囲気と、やれやれといわんばかりの弁慶の目尻がヒノエの推測を裏付ける。にたりと笑い、ヒノエは向かいに座る、恐らくは座の中で最も状況説明に適しているだろう叔父に、詳細を明かせと目線で訴える。
 その視線に気づいたのだろう。景時がうかがうように弁慶へと顔を向けるが、心得た様子で頷くのみ。まったく、どちらの方が立場が上かわかったものではないとは、ヒノエが常々抱いている呆れと嘲笑だ。
「結論から言いましょう。今回の熊野行きに、月天将殿を伴います」
 付き合いが長いのだから、無論ヒノエのそんな内情には気づいているだろうに。微塵も気にかけた様子はなく、弁慶はきっぱりと言い切った。


 唖然とは、この時の心境を指し示すべき言葉であった。ヒノエと敦盛の驚愕は言うに及ばず。恐らくいまだに世の常識に馴染みきっていないだろう譲でさえ絶句しているのだから、弁慶の発言内容の突飛さは、本当に、常軌を逸するものだった。
「……お前たちの言いたいことはわかる。だが、他にどうしようもないんだ」
 苦々しく沈黙を割り、今度は九郎が説明を買ってでる。
「昨晩、見張りの兵を買収して、月天将に狼藉を働いた兵が数名いてな。無論、そのことに関しては後からしかるべき咎めを与えるつもりだが、どうやら、月天将が類稀なる術使いである、との噂は本物だったらしい」
「もしかして、その術での返り討ちにあったとか?」
「……返り討ちにあうところを、当の相手に救われたんだそうだ」
 ヒノエの推測に苛立たしげに切り返し、九郎は急くように言葉を継ぐ。
「騒ぎを聞きつけて俺が牢に入った時には、狼藉を詰られるより先に、腰を抜かしているそいつらを引き取ってくれと当人に乞われた」
「どういうことですか?」
「あれは、気、とでも表せばいいのか? とにかく、立ち込める空気が重くてな。他の兵達では、踏み込むことさえできなかったんだ」
 訝しげに眉間に皺を寄せて問いかけた譲に、自身も首をかしげながら九郎は続ける。
「暴発を抑えていた、というのが彼女の説明でしたよ。実際、腰を抜かしていた皆さんに関しては、掠り傷のひとつもありませんでしたけどね。それでも、彼女が“そういう力”を揮えるということが兵達の間に広まってしまいまして」
「自分達の手には負えないって泣きつかれたのと、さすがに、また同じことがあったら、外聞も悪いからね」
「龍神の神子ならば対抗できるだろうし、手元に置いておけば安全だって?」
 続く弁慶と景時の言い分にヒノエが締め括りの言葉を添えれば、心底気まずそうな表情で九郎が「そういうことだ」と頷く。


「処断をするにせよ捕虜として扱うにせよ、とにかく、相手は名のある将だ。辱め、貶めるような真似をすれば、兄上の名にも瑕がつく」
 その当の鎌倉から月天将を将ではなく女として慰み者にでもしろとの文が届いていたはずなのだが、九郎がそう解釈しているあたりからして、随分と婉曲的な言い回しが用いられていたのだろう。その、何事に対しても過ぎるほどに真っ直ぐな性情こそが兵達から慕われる素質でもあるのだが、政治的な側面に関しては致命的な暗愚さとなる。譲を除く全員がそれぞれに複雑な表情を押し殺すのをちらと見流し、ヒノエは唇を吊り上げるだけの冷笑を仄かに刷く。
 恐らく、牢から拾い上げた月天将を手許で保護することを決めたのは、九郎の独断だろう。それこそ、戦場で捕らえた敵方の女を気に入り、慰み者として囲う将など珍しくもない。屁理屈は十分に押し通せるだろうが、果たして、それが吉と出るか凶と出るか。
 いずれにせよ、ヒノエとしては熊野を目指す道中において、平家の中枢にも繋がる将と接触を持てる可能性が広がったという観点から、それは歓迎すべき状況だった。烏が持ち帰るのとも、敦盛から聞き出すのとも違う情報を、きっと彼女は齎してくれる。口の堅さは弁慶を閉口させるほどだったが、ヒノエにはとっておきの切り札がある。彼女が弁慶の言うとおり、己の立場をわきまえた良き将であるのなら、その切り札を無碍に扱う真似はするまい。
「さすがに随分と消耗しておいでのようでしたから、こちらにお連れして、今は望美さんと朔殿にお任せしています」
「なるほど」
 そういう理由をつけてあれば、確かに、彼女達に席を外させるのは容易であったことだろう。そして、その人選はじつに適切である。納得を示したヒノエに小さく苦笑を向け、続けたのは景時。
「と、いうわけで。近い内に出発するから、明日は手の空いている人間で、必要物資の買出しね」
「夏の熊野路は過酷だ。分量は最小限に、しかし抜かりなく揃えねばなるまい」
「さっすが、リズ先生は詳しいね」
 ようやく口を開いた寡黙な八葉に朗らかに返し、勝手がわからないからと、申し訳なさそうにしながらも端的に質問を繰り出す譲に、景時はにこやかに答えている。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。