さざめくしじま
軽やかな足取りとは裏腹に、あらゆる思考によって重く満たされた頭の中身を手早く整理しながら、緑の気配が色濃い都路をヒノエは急ぐ。自身の体を二つに割るわけにもいかず、まして白龍の神子を護るという八葉に選ばれたことを思いこうして源氏に身を寄せているが、だからといって源氏に与したわけではない。怨霊を使役するという在り方はどうにも受け入れかねるが、現時点で見限るには、平家はあまりにも力と、そして可能性を残しすぎている。
あばら家にしか見えないねぐらにするりと体を滑り込ませれば、待ち構えていた烏達がいっせいに頭を垂れてヒノエを迎え入れる。
「頭領」
「はるばるご苦労。あちらさんから何か、新しい接触は?」
「大当たりですぜ。近く熊野を訪ねるから、それまでには戻っていろと」
なんか色々ばれてるみたいですね。そう言いながらも不敵に笑ったのは、ヒノエが待ちわびていた熊野からの伝令の烏。告げられた内容は想像以上で、ひゅうと口笛を吹いてヒノエもまたにやりと笑う。
「それだけ必死で、それだけ本気ってことだろうよ……。どうせこっちも似たようなもんだろうから、それにあわせて戻るよ。そうじゃなきゃ適当に言い繕って戻る。返事は?」
「不要、とのこと。とにかく、確認も含めて読んでください」
こちらに、と差し出された文は、一体どこでどう工面したのか、意外にも上質な紙に相変わらずの流麗な手蹟が踊っている。もっとも、それも常のこととなっているのだが。
体裁は雅さを匂わせるくせに中身は殺伐としていて、いっそそっけないほどの簡潔さ。だが、その方がわかりやすいし、要点のみに絞った文はそれこそ何かと多忙なヒノエにとってありがたい。ざっと目を通し、ところどころにちりばめられた皮肉や揶揄を正確に拾ってヒノエは笑う。
「まったく、相変わらず訳のわかんねぇ野郎だね。どうしてコイツが誰かの手駒に納まってるのか、本当に不思議だよ」
そして、だからこそヒノエは既に天命に見放されたと一度は見限りかけた一門を、いまだにこうして用心深く探り続けているのだ。
「今日は時間があるから、あとで返事をしたためるよ。その前に、残りの報告を聞いとこうか」
込み上げる笑いを吐息に混じらせて散らし、ヒノエはついと視線を滑らせる。それに応じて深く下げられたいくつもの頭が次々に紡ぐ情勢を脳裏に叩き込みながら、あらゆる可能性を列挙しては切り捨てていく。
寄る辺も言い分もそれぞれに異なるが、結局、ヒノエのなしたいことは源氏よりも平家のそれに通ずる。だからこそと思いが偏ってしまう己を自覚し、それさえも察しているだろうにそこは決して衝いてこない相手に敬意を捧げて。ヒノエはせめてもの誠意にと模索する。己にとっての最善の道の中で、叶うならば相手にとっても悲しみの少ない道を選べるようにと。
そうこうして丸々一日を己の八葉以外の職分のために費やしたヒノエが梶原邸に戻ったのは、ちょうど日が沈んだ頃のことだった。出かけたときと同様、軽やかな足取りと自信に満ち溢れた笑みを湛えてのぞくのは、邸の中でも皆が集うのに使われる一室。とりあえずそこに赴けば、誰かしらを捕まえて、何かしらの情報を得られるというのが梶原邸における八葉の暗黙の了解だった。
「――っと、これはまた、どうしたんだい?」
人の気配はいくつもあったし、確かにぴりぴりもしていた。だが、揃っている面子はヒノエの予測を裏切るものだった。もっとも、驚愕などおくびにも出さない。ひょいと片眉を跳ね上げてから飄々と問いかけ、とりあえず手近な空席となっていた敦盛の隣に腰を下ろす。
「丁度よかった。お前がいないから明日にしようかと言っていたんだが、今後の予定について、皆に話そうと思ってな」
「ああ、それは悪かったね」
「構わん」
まず口火を切ったのは、やはり常よりもぴりぴりとした空気を纏う九郎だった。口調は落ち着き払っているが、その奥になにやら殺しきれない激情を呑んでいることは明白。
どうやらヒノエが出かけている間に京へと戻ってきたらしい景時のどこかいたたまれない微苦笑といい、鎌倉に居座る兄との間で、何か意思疎通に齟齬があったか、難題でも突きつけられたか。いずれにせよ、表情に内情を滲ませるなんてまだまだ青いね、と。己よりもだいぶ年かさの相手に、しかしヒノエはひどく老成した笑みを胸の奥で噛み殺す。
「で? またどっかに兵を出すのかい?」
「いや。戦ではなく、熊野に行くことになった」
「……へぇ」
もっとも、ちゃかすばかりでは話が進まない。誰も口を開かないのをいいことに適当に言葉を転がせば、生真面目な声が答を返す。それも、あまりにも予想どおり過ぎて、面白味に欠ける答を。
思わず笑い出しそうになるのを寸でのところで踏みとどまり、意味深に向けられる叔父の視線はことごとく無視。短く相槌を打つにとどめ、ヒノエは視線で先を促す。
「熊野別当に会い、熊野水軍の協力を取り付けるよう、兄上は仰せだ。俺も、今後の平家との戦いを考えた上で、水軍の協力は欠かせないと思う」
「まあ、そうだろうね。平家は海戦に長けているけど、源氏は舟の数からして少なすぎる」
「だから、何としても熊野の力が欲しいんだよね。ヒノエくん、水軍の人でしょ? 別当って、どんな人かなぁ?」
ヒノエの指摘にぐっと息を呑み、何ごとかを言い返したいのか眉間に皺を寄せた九郎の機先を制すように、景時が絶妙な間合いで口を挟む。間を外すだけにしては、問いかけの内容は秀逸。なるほど、内部からの伝手が欲しいのだろうなと冷静に考えながら、しかしヒノエは表情を揺らさない。
「さあね。人品の評価なんて、見る奴によって変わるもんだろ? オレがここで変なことを言うより、自分達の目で確かめた方がいい」
「……そのとおりだな」
「あはは、ごめん。俺、ずるかったね」
「交渉の前に相手のことを探るのは基本ですよ。まあ、ヒノエがそう言うのなら、無理にとは言えませんけどね」
やはり生真面目に頷いた九郎にとりなすように景時が眉尻を下げて笑い、弁慶がしたり顔で嘯く。その身元を微塵も疑う気のない総大将と、疑ってはいるものの下手に藪をつついて蛇を出さないよう警戒している軍奉行と、知っているくせに何も言わない軍師と。平家も相当な色物集団だが、源氏とて負けてはいない。情勢を見極めるのとはまた別の観点から、これで集団として本当に大丈夫なのだろうかと暢気なお節介すら胸中で焼きながら、しかし、その段になってようやくヒノエは違和感に小首をかしげた。
Fin.