おわりのはじまり
間者やらなにやら、とにかくあらゆる方面に散らしている己が手の者から既に報告は受けていた。ゆえ、遠からず自分の許を訪れるのだろうとも思っていたが、それにしても早すぎるだろうと、知盛は自邸を訪ねてき一門が総領に遠慮なく溜め息をこぼす。
負け戦とはいわないが、勝ち戦ともいえない。今後を睨んで間を置かずに布石を打っていかねばならない時期に、こんな、戦後処理さえままなっていないだろう身空でおとなわれても、後から皺寄せが来るのは自分達だというのに。
最近では滅多になくなった、先触れの使者を立て、場所をあえて寝殿と指定しての正式な訪問は、きっと将臣からの礼儀の表れ。別に形式になどこだわらないのにと、思いはするが口には出さず、知盛はゆるりと視線を持ち上げる。
「ご無事のご帰還、お慶び申し上げよう……兄上」
さてまずは、と、紡ぎあげたのは郎党として総領を労う言葉だった。思うところは様々に。だが、これまでの人生において培われてきた人の上に立つ者としての思考回路は、ただ冷静に最も重要度の高い懸案事項をはじき出す。こんなところで、御旗印としての自覚を失ってもらっては困るのだ。
対する将臣は、何ごとかを言おうとしては詰まるという所作の繰り返しの中に与えられた言葉に、すっと顔色を失っていった。みるみるうちに眉根が引き絞られ、いかにも慙愧に耐えかねるといった表情でぎりりと奥歯を噛み締める。
「……すまなかった」
そして、泣き出しそうに歪んだ瞳を隠すかのように、がばりと勢いをつけてその場で額を床に押し付けた。
かたかたと震える背中に、さらに震えを帯びた声が重なる。
「本当に、なんて言えばいいのかわからない。けど、すまなかった――ッ!」
これ以上はないほどに頭を下げ、何があっても強気に、前向きにからりと笑っている男が、泣くのを我慢していると雄弁に語る声で謝罪を繰り返す。鍛えられた背中が、どこか切ない儚さを孕んで、ひたすらに震えている。
何に、とも、何が、とも、将臣は言わなかった。だが、それはあまりにも明白だった。報告をもたらす間者が、郎党が、皆打ち揃って悲哀と同情を浮かべていた。それは、帰るべき存在が、帰ることができないという事実ゆえに。
「……謝罪などするな。それでは、あれが惨めだ」
溜め息をもうひとつ追加して、知盛は静かに「顔を上げろ」と続ける。
「戦に出るとは、そういうこと。俺も、あれも、とうの昔に覚悟はしている」
そう、それは誰もが決めている覚悟。だから、誰が悪いということはない。ただ、殺しきれない憎悪と悲哀と後悔を抱えて、がむしゃらに進むことしか許されていないというだけのこと。
「だけど、あの時もし俺が、」
「うぬぼれるな」
促されるまま顔を上げ、しかしぐしゃぐしゃに歪んだ表情で過去を仮定しようと振り返り続ける将臣に、知盛は冷やりと言葉を放つ。
「うぬぼれるなよ、有川。そして見くびるな。あれと、お前と。一体どちらの方が将としての経験を積んでいるか、それさえわからぬとは言わせんぞ」
将臣の双眸に据えられた冴え冴えとした深紫の視線は、底知れず、そしてひたすらに怜悧だった。感情の揺らぎなどない、硬質な瞳。くつろげられた狩衣の首許にのぞく水晶と同じ、どこまでも澄み切った光の塊。
感情を殺しているのではなく、切り離して扱うことに慣れたその瞳を見るたびに、将臣は知盛と己との違いをまざまざと思い知る。人の上に立ち、誰かの命を預かりながらそれを動かす権限を持つとは、時に人としての何かを切り捨て、封じること。
将臣が四苦八苦しながら何とかこなそうとしているそれを、恐らくは物心つくより前から叩き込まれ、実践しながら生きてきたがゆえの瞳。感情による動揺よりも先に、理性による判断が入る生き方。だから、知盛の言葉はいつだって、いっそ残酷なまでの現実に即した判断に満ちている。
「あらましは聞いている。……あれの判断に、誤りはない。そして、仮にお前が出向いたとして、あれの代わりにお前が損なわれたのでは、もはや平家は立ち行かなかっただろうさ」
ゆえに現状こそは最高とは言わないものの最善。最も重んじるべき存在を微塵も損なわずにあるべきところへ還した、その判断を知盛は否定しない。むしろ、将としていかにあるべきかということを見失わなかった慧眼に、やはり己の心眼に狂いはなかったのだと再確認するばかりである。
「ゆえ、謝罪などするな……もし、何かしら思うところがあるというのなら。それは、今後の働きにて示してくださればよかろうよ」
吐息に絡めてゆるりと言葉を吐き出し、そして知盛はそっと視線を伏せる。伏せた先には、二人の間に据え置かれた、既に見慣れた異形の仮面。
Fin.