朔夜のうさぎは夢を見る

おわりのはじまり

 必ず還ると言ったのに、帰ってきたのは白馬と仮面だけだった。それは、良くあること。見慣れた顔が損なわれ、次々に周囲が欠けていく。戦が重なれば重なるほど、欠ける穴の数は増えていく。そこに法則などなく、保証などなく、区別など微塵もありはしない。ただただ厳正に、ひたすら平等に与えられている可能性なのだと知っている。
 帰ると言った娘は還らなかった。還ると誓うならそうだろうからと、必要なことだと判断して、たった一度だけ手の届かないところへ行かせただけなのに、誓いは成就されないまま宙吊りの状態で放置されている。そしてそれは、将臣の咎ではなく、それを認めた己と受け入れた彼女との帰結なのだと、知盛はただ静かに理解していた。
 苦々しさをじっと噛み締めた表情で同じく仮面を見据えている将臣の視線は追えていたが、気に留めることもなく、知盛はふらりと指を伸べて帰ってきた娘の名残を拾う。汚れの丁寧に拭われた仮面は、多少色は褪せていたものの傷ひとつなく、与えた時と同じ表情で知盛を見返している。
「……まだ、生死の確認は取れてないんだ」
 仮面の輪郭を指先でなぞっていた知盛は、呻くように発された言葉にちらと視線を飛ばす。
「敦盛もそうだけど、討ち取られたっていう情報もない。だから、もしかしたら捕虜として捕まっているだけかもしれない」
 無論、それはひとつの可能性。そして、どこかしらに身を潜めているのかもしれないというのと並んで、最も確実性の高い可能性のひとつだった。敦盛にしろ、月天将にしろ、討ち取ったのなら声高に叫ばれる身。その情報がないということは、討ち死にした可能性は低いということだ。


 黙って視線で続きを促した知盛に、将臣は還内府としての表情を浮かべて続ける。
「とにかく、捕虜の交換を打診する文を送ってみようと思う。応じてくれるならよし。応じてくれなくても、何としても和議を実現させて、帰してもらう」
 言い切るその瞳に、もはや負の感情による揺らぎはなかった。いっそうの凄みを増した覚悟と意志に縁取られた、ぎらぎらと光る強さが耀く。
「……好きにするといい。だが、そう易々と応じるとは思えん。その上で、いかに和議を成すと申されるのか」
 怨霊による補強を受ける平家と、反平家勢力を取り込んで歩く源氏との兵力はほぼ拮抗している。西国の平定という背景を持つ分、勢いは平家がやや優勢。だが、白龍の神子の降臨を受けた源氏の士気の高まりは無視できるほどのものではない。
 怨霊に対する絶対的な対抗手段を獲得した今、強気ぶりでは源氏の方が上だろう。となると、この状態で源平自力での和議を成せる可能性は、限りなく低いと知盛は踏んでいる。
「熊野を取り込む」
 試すように眇められた深紫の視線の先で、将臣は静かにそう言い放った。
「こっちにはまだ福原があるし、帝も、三種の神器もある。陸上では五分五分でも、海上に出ちまえば俺らに一日の長がある。さらに熊野さえ取り込めれば、和議のごり押しだって可能になる」
「そう、簡単にいくとは思えぬが」
「わかってる。だから、お前にも動いてもらいたい」
 じっと視線を返して知盛がそう言うと、将臣はわずかに身を乗り出した。
「その場合、福原を空けることになるけど、その辺は重衡とかに頼めばいい。変に使者をあれこれ画策するより、総領自ら、って方が箔がつくし、お前ならどんな判断だって一存で大丈夫だろ」
 しばし無表情のまま鋭い視線を受け止めていた知盛は、おもむろに小さく肩を竦めてみせた。


「……随分と、高く買っていただいているようで」
 目の付け所は悪くないし、理屈も通っている。そして何より、総領自らを使者に立たせようというその発想の奇抜さが、愉快で仕方ない。飄々と嘯いて喉の奥で笑声を転がし、知盛は己の反応を息を詰めて待ちわびている一門が総領を見返す。
「そうおっしゃるからには、無論、御身が使者として立たれるのだろうな?」
「名前が使えるんなら、どこだって行く」
「それは、ありがたいことで」
 迷いのない断言にくつりと笑い、知盛はそして視線を膝の上の仮面へと落とした。
「その強気、忘れるなよ」
 ゆるりと輪郭を撫でてから、今度は獰猛さを押し殺した瞳で藍色の双眸を射抜く。
「確された先にあれの命が損なわれるという現実が待っていたとて、二度とあのような戯言はほざくな。あのような貌は見せるな」
 悼むことは構わない。悲しむことも、惜しむことも、すべてその思いは受け止める。それは、知盛が決めた覚悟にして対価。還内府ではない有川将臣を、ありのままに認め、曝け出せる場になるというひそやかな罪滅ぼし。だけれども、謝られることだけは認められない。
「俺も、あれも、自身の意思で太刀を握り、自身の意思で軍場に出ている。――その在り方を否定することは、たとえ還内府殿とて、許しはせん」
 低く、強く。放たれた声に息を呑んだ将臣は、暫しの瞠目の後、改まった表情で深くその場に頭を垂れる。
「すまなかった」
 今度の謝罪は、知らず相手の尊厳を傷つけていたことに対して。神妙な声で紡いだ後頭部に鼻を鳴らす気配が降るのを受け、顔を上げて将臣は誓う。
「絶対無駄にはしない。必ず、倍以上にして返してみせる」
「……お前は、そうして前だけを見ていればいい」
 そっと、今度はどこか慰撫するような響きの声でやんわりと応じ、瞳の奥でぎらついていた険をするりと収めて知盛は小さく、ほろ苦く笑う。まあ、でも今夜ぐらいは。
「共に、酒でもいかがか?」
「………いいな。潰れたって面倒見てやっから、存分に飲もうぜ」
「それはいい」
 ほろ苦い笑みを交し合い、今頃積もりに積もっているだろう雑務のことを一時ばかり忘れることに決め、二人は早々に酒精という憂さ晴らしを決定した。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。