おわりのはじまり
青年がこの娘を助けようとしていたのは明白。ここで、八葉でないから、という理由で娘を捨ておけば、今後、その信を獲得することができないかもしれない。ならば、いかな結果に落ち着こうとも、決して彼のみを助けたわけではないのだと、その事実を打ち立てることこそが肝要。その上で二人の命運を龍神によって与えられた使命が左右したとしても、それは人の世のしがらみであり、致し方のないことなのだ。
打算的な発想を拭いきれない己に軽い自己嫌悪を覚えながら、しかし望美はいっそ冷酷とも呼べるだろう判断を間違いだとは考えない。白龍の神子の使命に、そして望美の目指す未来図のために。八葉の存在と絆は、どうしたって必要不可欠なのだ。
「わかりました。とにかく、傷の酷そうなそっちの彼から運びましょう」
言い出せば譲らないし覆さない。望美の性格を正しく把握していればこそ、譲は溜め息ひとつでそれ以上の説得を諦める。
「うん。ありがとう」
「いいえ。でも、そっちの彼女はどうしましょうか」
「私が残って看ているよ、って言いたいんだけど……」
譲だけで陣に帰せば、次には抜き身の太刀を握った九郎がやってくる気がしてならない。最終的にその刃が閃くのだとしても、目の前で処断されるのは寝覚めの良いものではない。
「じゃあ、オレが手伝ってやろうか?」
どうするのが最善かと、考え込む二人は、だから唐突にかけられた声の主を、まるで降って湧いたかのごとき驚きでもって振り返っていた。
「ヒノエくん!」
「ヒノエ!?」
「つれない姫君だね、まったく。オレを放って、一体どこの男を拾おうっていうんだい」
にっこりと、音のしそうな笑みを浮かべて、視界から望美の手元を遮っているのだろう低木の向こうに立っていたヒノエが軽やかな足取りでやってくる。そして、軽口のままにひょいと覗き込み、途端に表情を引き締めた。
「ヒノエくん、どうしたの? なんでこんな所に?」
「お前と譲が陣を出るのを見たっていう兵が、わざわざ知らせてくれたのさ。九郎あたりに知れたら面倒なことになるだろ?」
だから、ばれないうちにと思ってね。そう嘯く声はあくまで軽やかだったが、視線は地に伏す二人から微塵もずらされない。
「しかし、またとんでもないヤツを見つけてくれたね」
「ヒノエはこの人達を知っているのか?」
「片方はね。まあ、見知った顔だよ」
しみじみ吐き出された声に譲が視線を流せば、あっさり肩を竦めてヒノエは青年を指し示す。
「コイツが八葉だって? まったく、龍神も酷なことをしてくれるじゃん」
「ヒノエくん、私、敦盛さんを助けないと」
「……一体どこでコイツを知ったのかは、聞かないでおくよ、姫君」
けど、九郎には言わない方がいい。わかるね、と。年下なのにまるで年上のような調子で諭され、望美は反論もせず素直に頷く。年齢という区分の仕方が意味を持たないことを、望美はこの世界で存分に思い知っている。そして、それだけの振る舞いが板についているというか、ヒノエの言動は、いつだってその裏に実績を滲ませる、実のあるものなのだ。
何も問わずにいると、その言葉が意味するのは、お前のその行動をいぶかしんでいるとの忠告。しかし、黙すと言ったきり、ヒノエはそれ以上その話題に触れようとはしなかった。望美の隣にしゃがみこんで傷の具合を診やり、敦盛の衣の袖を遠慮なくちぎって応急処置を施していく。
「八葉なら、弁慶の野郎も巻き込んでやりなよ。そうすりゃ、九郎の説得も何とかなるんじゃないかな?」
「うん、そうだね。傷の手当もしてほしいし、戻ったら声をかけてみるよ」
「でも、譲も言ってたけど、こっちの姫君はどんなに良くても捕虜扱いだね」
言ってヒノエは譲を振り仰いで敦盛を運ぶよう指示を出し、自分は娘を抱き上げた。その身を隠すように被せられていた、あちこちが血に染んでしまった白の衣がふわりとなびき、血臭に混じってあまやかな香りが仄かに漂う。
「ヒノエくん、その人のことも知ってるの?」
「知りはしないよ。ただ、予測がついているってだけで」
手当ての際に娘の腰から外された太刀と鎧を拾い、同じく敦盛を担ぎ上げた譲が立ち上がるのを手伝ってから、望美は思案顔のヒノエに問いを向ける。
「予測?」
「わからないかい? 蒼黒の鎧に白木の鞘を佩いて従軍する姫君なんて、ひとりしか聞いたことがない」
「………やっぱり、その人が“月天将”なのか?」
「仮面の下が、こんな貌とは知らなかったけどね」
謡うように紡ぎあげ、ヒノエは器用に肩を竦める。
「平家を三草山からは追い出せたけど、福原も落とせなかったし、こちらの打撃も小さくない。月天将の首は、鎌倉への言い訳にちょうどいいだろうよ」
言って薄く冷笑する横顔はその酷薄さこそが美しく、まだ明かされていないヒノエのもうひとつの顔と役割を思い起こさせる。遠からず、この年齢にそぐわぬ怜悧さを備えた青年と渡り合わねばならないのだと。進もうと促す声を聞く望美の意識は、既に次の舞台である夏の熊野へと移ろいつつあった。
Fin.