朔夜のうさぎは夢を見る

おわりのはじまり

 怨霊兵と源氏勢との間ではかなりの激戦が繰り広げられたらしく、道標のように、上流へ行けば行くほど血と、怨霊兵が傷を負った時に特有の腐臭とが濃くなっていった。途中に何名かの怨霊兵を見つけ、しかしその数の少なさに、は隊を組むことを諦める。
 馬を待たせている辺りにて待機し、朝までに戻らなければいる面子だけでも福原に戻れと。そう指示を出しては漂う陰の気に呑まれて理性が蝕まれないよう、少しずつ自身の陽の気を分け与えてから送り出す。
 だが、それがまだましだったことを、は程なく知ることとなった。行けば行くほど抜け殻となった鎧やら回復の見込めない傷を負った怨霊が増え、は表情を歪めながらとどめを刺して歩くばかりになる。
 世に明らかにすることなかれと命じられ、自らも納得して秘すことを誓った焔を薄く薄く刃に纏わせ、現世に留められた魂を昇華する。誓った際に与えられた預言じみた助言にあった“真に必要とする場面”を、はこれ以外に知らず、怨霊を正しく“再びの死”に導く術も、他には知らない。
 その最たるであり王道だという白龍の神子による封印がいかなものかは知らないが、灼かれる痛みを訴えながら五行に溶ける彼らを、必要以上に苦しめていなければいいと願いながら。


 せめてもの形見代わりにと拾い歩く鞘につけられていた組紐が、衿を重くたわませても、しかし、もはや中身のある鎧は源氏方の兵の屍ばかりである。
「もう本隊に退いていてくれればいいんだけど」
 小さくごちはするが、辺りを満たす陰気が期待をするなと訴える。闇に紛れて目指す人影を見落とさないよう木々の間に目を凝らし、腰に佩いた刀の柄を握り締め、は感覚を閉ざしてなおのしかかる重い気配に、ますます慎重に足を運ぶ。
 そうやすやすと封印はされていないだろうが、無傷であるとも思えない。敦盛は確かに強大な力を宿す怨霊であり、それを理性で抑えるだけの精神力の強さもあるが、いかんせん、知盛や重衡といった将を見慣れているにしてみれば、その幼さが引っかかる。
 漂う陰の気がここまで濃密ということは、敦盛がその怨霊としての力を解き放ったことの証明に他ならない。侮るわけではないが、往々にして幼さは未熟さに通じている。既にいくつもの戦場を経験しているならともかく、出陣の噂を聞いたことがないということは、これが初陣。そして、初陣は良くも悪くも特殊な一戦であることを、は自身の経験という意味でも、将臣という観察という意味でも、とにかく身に沁みているのだ。
 傷を負って倒れているなら上々。最悪なのは、いまだ理性を取り戻せず、怨霊としての衝動に支配されている場合。さてどちらかと、額に浮かぶ冷や汗を自覚しながら、ひたすらに足を運び続ける。


 察せていたのだから、油断をしていたわけではない。決して。それだけは断言できる。だが、それでも咄嗟に浮かんだのは「抜かった」という後悔だった。
 風を感じ、気配の揺らぎに振り返ったのと腹部に熱と衝撃を感じたのはほぼ同時。吹き飛ばされる中で反射的に受身を取り、川原に転がりながら姿勢を整える。
「何者ッ!?」
 地に落ちた狩衣には見向きもせず、刀を抜き放って目を眇めれば、ゆらりと蠢く巨大な影。
「……敦盛殿」
 それは、の知る敦盛とは似ても似つかぬ姿だったが、確かに敦盛だった。気を探るための感覚は閉ざしたままだが、否応なしに流れ込む陰の気に呼吸が圧迫される。それでもなお口をついて出た自分の声を聞いて、は噂の生ぬるさに八つ当たりでしかない恨みを覚える。これは、抑え切れないなどという代物ではない。どちらがどちらを殺すか、というものだ。
 月を隠していた雲が切れたのか、ふいに明るさを取り戻した視界を埋めるのは、いたるところに傷を負った、それでもなお圧倒的な強さを示す怨霊、水虎。真紅の瞳がじっとりとを見据え、低い呻きが喉を震わせている。
 一撃の威力が違いすぎる。拍動にあわせて脈打っている腹部の傷を感じながら、はとにかく、相手の動きから目を逸らさぬよう神経を張り詰めさせる。次の一撃をまっとうに喰らえば、もう動けなくなるだろう。その前に、何とか気絶させることができれば、最も穏便な解決手段となるのだろうが。


 じりじりとした睨みあいの後、仕掛けたのは水虎だった。巨体に似合わぬ素早い動きで繰り出された爪を、しかしは左の袖の犠牲のみでかいくぐり、一気に懐に潜り込む。
 狙うは首許に見えた鎖型の呪具。あまりに強大な怨霊を身の裡に宿すため、衝動といざという時の行動を戒めるための封印具を常に身につけているという話を、いつか知盛がしていた。ならば、そこに持てる限りの霊力を叩き込めば、あるいは動きを封じられるだろう。
 失敗に終わるというなら、経正には申し訳ないが、加減を誤って殺めてしまう可能性を知った上で蒼焔を叩きつけるしかあるまい。できるならば同士討ちなどさせてくれるなと、きりきりと胸を締め付ける祈りに唇を噛み締めたは、指に触れた鎖に全身から搾り取るようにして気を叩き込む。
「――ガアァアッ!!」
 逃れるように身を捩り、振り回された腕によって、は今度は木立の合間へと放り投げられた。姿勢を整えるには障害物が多すぎて、木の幹に容赦なく叩きつけられた背筋が軋む音が聞こえる。ここで追い討ちをかけられては終わりだと、場違いなことを考えながら動かない掌に蒼焔を呼び起こす準備をしていたは、しかし、一向に追ってこない気配に不自由な視界をゆっくりと持ち上げる。


 どうやら水虎には下手人を追いかける余裕がないらしく、その場に蹲って呪具の霊力に苦しんでいるようだった。似ているところなど微塵もない巨大な背中に、六波羅で、福原で、ちらちらと垣間見た儚げな横顔が重なる錯覚を覚え、は眉根を寄せてその姿に見入る。
 ああも在り方が歪んでしまうのか、とも。あの凶暴な衝動を、呪具を纏ってまで抑えているのか、とも。湧きあがる衝動は徒然にあらゆる方向を向いていたが、突き詰めてしまえば、かなしいの一言に尽きた。そうなってしまうことが悲しい。そうさせてしまうことが哀しい。それでも共にいられることが、愛しい。
 暫し伏せていたおかげで感覚の戻ってきた腕で体を支え、痺れの残る背中に表情を歪めながら、それでもは立ち上がる。だから、迎えに来たのだ。共に帰るために。
 今ならば陽の気を送り込むことで調和を取り戻させ、人の姿に戻すことも可能だろう。背後に寄っても振り返ろうとさえしない姿に申し訳なさを覚えながら、そっと、首筋を通る気脈に指を当てる。探るまでもなく感じるのは、自身の内に流れるのと同じ水の気を強く持つ気の流れ。同属性ならば馴染みも良いし、としても負荷が少なくてありがたい。ゆるりと気を流し込みながら、どうか我に返ってくれと、願いを篭めて囁きかける。
「帰りましょう。経正殿が心配していますし、将臣殿も、他の皆様も、待っておいでですよ」
 だから、一緒に帰りましょう。その一言を、最後まで言えたかはわからなかった。口にした途端に沸き起こった郷愁に張り詰めていた気が緩んだのか、ふっと視界が暗くなるのを感じる。
 加減を誤ったのだと。今さらの自覚に歯噛みするのも束の間、膝からかくりと力が抜ける感覚を最後に、は意識を闇に沈めたのだった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。