朔夜のうさぎは夢を見る

おわりのはじまり

 ありうべからざる存在とはいえ、平家の一員として在る以上、それは知盛の慈しむ対象であり、の愛する対象。それに、いくら白龍の神子が現れて存在が危ぶまれるようになっても、貴重な戦力である現実は揺るぎない。
「ですが、それなら私が――」
「経正殿は副将であられましょう? 陣を空けることは避けるべきです」
 戸惑うように口をはさんできた経正にぴしりと言い切り、は将臣をまっすぐに見据える。
「怨霊兵を率いて、源氏軍の背後に回りましょう。それが難しいようなら、そのまま福原に帰還します」
「……妥当だな。無理はしなくていい。来ないものとして対処するから、無事の帰還を最優先にしてくれ」
「承知いたしました」
 ひとつ深呼吸をはさみ、あっという間に冷悧な将の表情を取り戻した将臣は、短く指示を出して背後で不安げに眉を顰めている経正に視線を流す。
「敦盛が出てるらしい。もし言葉が通じないようなら、多少手荒になっても構わない」
 不意に張り詰められた表情に小さく仮面の下で目を見開いたは、告げられた内容にすっと意識を引き締めた。


 実の兄である経正を前にしているという後ろめたさもあったが、それ以上に、敦盛の怨霊としての力は強大なのだ。これまで直接対峙したことはないが、話を聞く限り、理性を呑まれている場合にはの力で圧力をかけても、無傷で抑えることはできないだろうと確信している。
「いいな、経正」
「無論。軍場に出た以上、覚悟はできております」
 深く重い総領の言葉に恭しく頭を垂れ、経正はごく冷静にいらえる。
「月天将殿も、御身を第一にお考えください。兄の欲目ではなく、あの子の秘めたる力が放たれたなら、それは敵味方を問わずに猛威を揮いましょう」
「ご忠告、しかと」
 継ぎ足された言葉をしっかりと胸に刻み、そしては仮面に遮られて伝わらない表情の代わりに、ことさら声をやわらげる。
「あまり心配をしすぎませんよう。大丈夫です。皆、一門を護らんと戦う同士。思う心が同じなら、必ず声が届きましょう」
「そうだな。敦盛は優しいし、心が強いから、きっと大丈夫だろ」
 信じてやれよ、と。将臣が続け、包み込むように笑って憂い顔の経正の肩を叩く。
「では、わたしは兵に言って、そのまま出ます。指揮の引き継ぎを、お願いします」
「一人で行くのか? 手勢を連れていっても平気だぜ?」
「身軽な方が動きやすいですし、怨霊兵達の気も立っているでしょうから」
 そんな所に生身の、普通の人間を連れていくのは逆に危ない。や将臣が軍場において嫌でも高まる怨霊の陰の気に呑まれないのは、決して一般的な事例ではないのだ。


 自身が徒人よりもよほど強大な陽の気を纏っているという自覚はないに等しいものの、将臣もその特殊性はわかっている。だから、しつこく喰い下がるような真似はせず、あっさりとの要望を呑む。
「わかった。とにかく、帰還を考えろ。……気をつけてな」
「ご武運を」
「お二方も、どうぞお気をつけて。ご武運をお祈りしています」
 では、と短く言いおいて颯爽と踵を返すと、はせわしなく見えない最大限の速度で愛馬の許へと向かう。兵法などろくに知らなくとも、実地で身につく鉄則は少なくない。戦端が拓かれれば、いかな場合においても、巧遅より拙速こそが求められるのだ。


 まかり間違っても源氏方の斥候に遭遇するわけにはいかない。器用に手綱を捌いて木立の合間を縫い、は叶う限りの最短距離を行く。
 三草川周辺がいかな有り様かは、目の当たりにするまでもなく、漂う濃密な陰の気が伝えていた。一体どんな状況で指揮を手放したかはわからないが、敵に大打撃を与えるという目的はしかと果たしているだろう。ところどころに感じるやけに清浄な気の穴は、件の神子の封印による残渣だろうとあたりをつける。
 陰気は怨霊にとって糧となるが、過ぎれば理性を奪う要因になる。これだけの濃密さの中で、果たして白龍の神子から逃れるという判断のできた怨霊兵がどれだけいたか。には決して、明るい見通しを立てることができない。
 あらゆる方向から感覚をいびつに刺激される状況に、気を探っての探査は早々に諦めた。処理しきれない量の情報に意識を呑まれる前にと、意図的に感覚の一部を閉ざして五感のみによる探索に切り替える。


 ようやく辿りついた川辺は、実際の戦場よりも下流だったらしい。千切れた布やら折れた矢やらが様々に流れる暗い水面をちらと見やり、愛馬を木立の合間へと促す。
「お前はここで待っていて」
 鼻筋を撫でてやりながらそっと言い聞かせれば、白馬は小さくいなないて木陰に身を寄せ、静かな瞳で見返してきた。言いたいことが通じたことを確信し、は仮面を外してにこりと微笑む。
 視界を狭める要素はいらないし、怨霊が相手なら顔を隠す必要もない。代わりに、何かあった際に使えようと持ってきた狩衣を頭から被っておく。
「すぐ戻るわ。もし朝までに戻らなかったら、福原に帰るのよ?」
 仮面を鞍に結びながら、思いついて万一の指示を追加すれば、かつかつと蹄で地を蹴っての抗議が返された。馬がひどく高価であることはの常識にもあてはまることだが、重用の度合いは桁違いである。それも無理からぬことと思い知るのは、こうして彼らの知性を感じる瞬間だ。馬は、軍場にて命を預けるに足る、大切な仲間なのだ。
「大丈夫、みんなを迎えにきただけだもの」
 苦笑を添えて宥める言葉を返し、は今度こそ足を引く。
「殺されそうになったら逃げなさいね。無理に待たなくていいから」
 鼻を鳴らす音を背中に、狩衣の裾を翻しては川沿いを慎重に辿りはじめた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。