朔夜のうさぎは夢を見る

おわりのはじまり

 束の間のまどろみを打ち破ったのは、慌しく近寄ってくるせわしない気配の存在だった。意識の一部を現実に向けながら浅く眠ることに慣れた体は、すぐさま覚醒して思考にかかる靄を振り払う。
 さすがに仮面は外していたため、万一を考えて顔を隠すよう頭まですっぽり被っていた狩衣を畳み、手早く顔を隠しなおしてからは気配の集まっている方へと足を向けた。
「お、ちょうど良かった。今、斥候が戻ってな」
 足音を立てたつもりはなかったが、殺す気のない気配を読まれていたのだろう。くるりと振り向いた将臣が、目前で跪く兵を示しながら口を開く。
「動きましたか?」
「ああ。もうすぐ山頂の一隊が合流する。出迎え、頼んでいいか?」
「御意」
 依頼に二つ返事で頷いてから、は足を進める。
「馬柵の辺りにいます。御用があればお呼び立てください」
「わかった。指示を出したら、一回戻ってくれ。最終確認をしたい」
「心得ました」
 と、そこまで言葉を交わし終えたところで、陣幕の入り口に経正が姿をみせる。
「ああ、月天将殿。先鋒が戻りましたよ。すぐに揃いましょうゆえ、行ってやってください」
「ありがとうございます」
 軍場にあっても変わらぬ穏やかな物腰に促され、は小さく会釈を残して陣幕を抜ける。報告どおり、後続が間を置かずに到着しているのだろう。ざわめきを目指しては足早に兵達の合間を進む。


 戻ったのが山頂に潜んでいた一隊ということは、源氏勢が山ノ口の偽装に気づいたということだ。まずは予定どおりに陣へと帰還した労をねぎらい、全員が揃ったことを確認してからは声を引き締めなおす。
「本陣におけるわたし達の使命は、遊撃です。源氏勢は奇策を得手とします。よって、本隊同士がぶつかっている間に隙を衝かれぬよう、全容が見えるまでは、いつでも離脱できる位置にいてください」
 今回の作戦においてが与えられた手勢は、惟盛を仰ぐ郎党の一派である。重盛が健在の頃から仕えているという古参の一味は、怨霊と化し、その気性が生前と大きく変化した主をそれでも仰ぎ続ける忠義の一族。実力は折り紙つき、そして一門のためならばと、派手な戦功よりも全体での役回りを考えて動ける切れ者揃い。
 だからこそお前の指揮にも従おうと、事前に知盛から伝え聞いた情報を思い返しながら、は慎重に言葉を継ぐ。
「惟盛殿の部隊との戦闘後の伝令次第では、陣を離れて身を潜め、背後を撃つことも視野に入れています。心積もりだけはして、今はわずかな時間ですが、体を休めておいてください」
「承知仕った」
 ぐるりと一同を見渡しながら指示を締め括れば、筆頭とおぼしき壮年の男が落ち着いた声で応じる。切れ者の一派たればこその遊撃案にも乗るだろうし、それを不条理と判じれば遠慮なく反発するだろうと。脅すわけでもなくただ事実として説明されていたからこそ、はひとまずの了承を得られたことに密かに息をつく。
 だが、それを悟らせるような愚は犯さない。仮面の下であっても何食わぬ表情を取り繕い、小さく頷き返してから先の将臣の要請に応じるべく足を引く。
「では、わたしは還内府殿と最終確認をしてきます。みなさんはこの辺りで待機していてください」
「あいわかった」
 はったりで構わんから、ひたすら堂々としていろ。そう嗤いながら嘯いていた主の言葉に従ってことさら背筋に意識を集めながら、は陣幕へと取って返した。


 さほどの距離もない移動だったが、それでも足を使って進むしかないが移動するにはそれなりの時間がかかる。変に慌てているように見えては逆効果だからと、どこかゆったりした足取りで目指す陣幕の中に、だから、降って湧いた気配があったのは仕方のないことだった。怨霊ならではの気配の重さと現れ方に、は三草川にいるはずの惟盛の合流を知る。
 時間からして、そろそろ源氏勢とぶつかっている頃合である。そんな中でわざわざ戻ってきたとなると、何か問題があったのかもしれない。その場合、山裾に潜んでいた伏兵の回収なり、先ほど郎党に伝えた作戦の変更なりを検討する必要がある。そんなことを考えながらようやく辿り着いた陣幕に滑り込めば、ちょうど、惟盛が宙にその身を溶かすところだった。
 やけに急激な登場と退場に、疑念はますます深くなる。苦い顔で向き合っている将臣と経正に嫌な予感を覚えながら、は状況を把握すべく、短く問いを発する。
「何かありましたか?」
「月天将殿」
「あー、ちとトラブル。惟盛が退いたんだ。俺、これから三草川に放置されたっていう残存兵の回収に行ってくるから」
 振り向いた順に、経正と将臣がそれぞれの問いに応じる。端的な将臣の説明になんとなく概要を把握し、思ったこと、言いたくなったことはそれなりにあったが、はしかし、最も聞き捨てならない発言をこそ正確に拾う。


「なりません」
「えっ?」
「ですから、総大将が陣を離れるなど、ありえません」
「いや、そうは言ってもな……」
 困ったように目をそらすということは、それが褒められた行為ではないと自覚があるためだろう。それでも言い出してしまうのは情の深さゆえか。もっとも、その思いもまた理解できるからこそ、溜め息をつき、は妥協案を提示する。
「わたしが参ります」
 惟盛は、怨霊と化してから残忍性が際立つ性格となり、さらに情緒不安定な側面をしょっちゅう垣間見せるようになった。だが、矜持の高さもまた際立っており、生来の責任感の強さもあいまってか、深追いをすることはあっても敵前逃亡はありえない。それでも退いたというなら、恐らくは斥候の報告にあった源氏の神子を恐れてのことだろう。
 宇治川の一件でも相当に荒れていたのだ。反応が過敏になってしまうのは無理もないことだとは思う。そして、惟盛ほどの力を持つ怨霊がかくも怯えるのだから、残された怨霊兵達がその力を目の前にして、冷静さを保てているとも思えない。
「遊撃ならば、わたしの得意とするところです。怨霊兵が相手なら、なおのことわたしが適任でしょう」
 ひけらかさなくとも、少しばかり身の内の焔をたかぶらせれば、怨霊達は敏感に察して膝を折る。経正や惟盛のような強大な怨霊はともかく、部隊を構成する怨霊兵はより動物じみた本能に従って行動している。なればこそ、にとって御すのはさほど難しくない。
「そも、この陣にとって、わたしはついでの将。経験を積ませる目的でもあったのでしょう? ならば、抜けても問題ないはずです」
 経験を積むという本来の目的にはそぐわなくなるが、今は怨霊兵の回収こそが優先される。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。