えらぶみち
惟盛の独断による挙兵はあったものの、宇治川における源氏同士の合戦は間諜による様子見を中心とした情報収集に徹するという基本方針に揺らぎはない。あくまで福原の守りを固めることを主眼において知盛と将臣が奔走する中、京から舞い戻った惟盛は、尋常ならざる憔悴と興奮の真っ只中にあるようであった。
雑兵やその他諸々、ごく一般的な人々が怨霊として存在するだけならばさほどでもないのだが、惟盛や経正など、格の高い怨霊はその存在の濃さが圧倒的である。知盛や将臣が燦然と輝く圧倒的な陽の気を纏うように、惟盛や経正は闇を思わせる濃くて深い陰の気を纏うのだ。
知盛が邸を覆うように張っている結界の向こう側から伝わる陰の気の揺らぎに、は惟盛の苛立ちを察する。人間は順応する生き物である、とは誰の言葉であったか。はじめのうちこそ、そこここに生じる不自然な気の偏りに体調を崩す者もいたのだが、今では、ただ同じ敷地内で過ごす分には誰も違和感を覚えていない様子である。
とはいえ、こうしてざわざわと揺らされては、多少なりとも気に敏い者には負担になるだろう。さしあたってのの心配は、主がこのざわめきに対して、体調不良という反応をとるか、不機嫌という反応を取るかどちらであろうということに尽きるのだが。
このところ連続となる夕餉はいらないとの連絡を今日も寄越した知盛は、が鍛錬でかいた汗を拭いに席を外している間に邸に戻っていたらしい。我が物顔での局に入り込み、御簾をからげて手酌で月見酒を楽しんでいる。
「お戻りなさいませ。お勤めご苦労様でした」
「……惟盛殿から、面白い話を聞いた」
とっくに気配で気づいているだろうに振り向こうとさえしない主の背中に向かって三つ指をつき、帰邸を迎える文言を紡げば、機嫌の良い調子で言葉を返される。どうやら、懸念は杞憂に終わったらしい。気を揺らされることへの不機嫌に勝る愉快な話とは一体なんだろうかと素直に首を傾げていれば、首から上だけをめぐらせて、知盛は視線でに自分の隣に座るよう指示を出す。
「宇治川の源氏の陣に、白龍の神子が現れたそうだ」
「白龍の神子? あの、龍神伝説の?」
「まあ、お前もあるいは“龍神の神子”なのやもしれんが」
今にも笑い出さんばかりの勢いで告げられた言葉に確認の意を篭めて問いを向ければ、くすりと笑んで揶揄が返される。確かに、に加護を与える神は、その本性を青灰色の美しい龍となす水神であるが、一般的に“龍神の神子”といえば、それは京を守る応龍の、陰陽に分かたれたそれぞれの龍神が選ぶという神子を示す。そして、その降臨は京の危機を救うためとも。
「京は、かくも危うき状況に置かれているのですか?」
思わず問いを重ねてしまったのは、にとってはその神子を招かねばならないほどの危機を京が抱えているとは思えなかったからである。確かに、都落ちをする平家は六波羅に火を放つことでかなりの面積を焦土と化させたが、余計な飛び火がしないよう、あらかじめ知盛やといった人外の力を行使できる人間で予防線を張ってある。
そもそも、あの放火は清盛の指示による「源氏の連中になぞ邸を荒らさせてなるものか」という意味合いもあったが、同時にあらゆる呪詛や死反の術で澱み、穢れてしまった土地を浄化するという目的も含んでいたのだ。乱暴な手段だったとはいえ、極度の穢れを残さないよう祓っておいたのだが、足りなかったとでも言うのだろうか。
そう言葉を継いで首を傾げたに、まじまじと視線を返してから、知盛は背を丸めて笑い出す。
「知盛殿? わたしは何か、おかしなことを申し上げましたか?」
たまらないとばかりに声を立てて笑い続ける主に疑問を重ね、は自分の言動を省みる。だが、当人としては綻びなど見当たらない。なんなのだと、あまりの笑われように徐々に眉間に皺が寄ってきたところで、知盛はようやく口を開いた。
「お前、では、人が死人をこうして呼び返す現状が、危うからぬ状況だとでも思っているのか?」
「……今さらではありませんか」
指摘はもっともであり、そういえば、と納得してからしかし、は言葉を返す。
「それに、これは天災というよりも人災です。たとえ神子が現れようとも、平家と源氏の諍いが納まらない限り、決して解決しようのない危機だと思います」
「ああ、確かに。お前の言には一理あるな」
ゆるりと頷いて、いまだ笑いの残渣に揺れる瞳を持ち上げて知盛は続ける。
「だが、それでも龍神は神子を選び、そして神子が現れた。それが事実であり、それがすべて。元よりあちらには黒龍の神子がおいでだったゆえ、京を守る応龍の意は源氏にこそありと、そう、大義を掲げよう」
「鎌倉を本拠とするのに、京の神を大義と称すのですか?」
「何だっていいのさ……要するに、建前だ。我らが、既に損なわれた三種の神器をもって、帝の正当性を謳っているように、な」
揶揄と自嘲の色濃い声で低く嗤い、知盛は杯を傾ける。
「人の戦に、人ならざる怨霊を持ち込み、そして人ならざる神が加わる……。おかしきこととは思わぬか? お前の言うとおり、これは人災であるはずなのに、まるで天災のようではないか」
「ゆえこそ、知盛殿は怨霊兵を厭われるのでしょう? 人の戦であればこそ、人の力で争うべきと」
「今の平家は、怨霊を否定すれば、その在り方が否定されるがな」
低く、深く。嗤いながら嘯いて、眇めた瞳で知盛はひたとを見据える。
しばらく黙っての目の奥を覗きこんでから、知盛はゆっくりと口を開いた。
「白龍の神子は、怨霊を浄化し、封印するのだそうだ。惟盛殿が荒れていらしたのは、その力を目の当たりにしたためであったとのこと」
それは無理のない、と、は素直に惟盛の恐慌に同情する。死せぬ存在として蘇ったはずが、その存在を根本から抹消するという神子の力を目の当たりにしてしまえば、慄くのも当然であろう。実際に“死”を体験していればこそ、もしかしたら生者よりもその恐怖は深いのかもしれない。そればかりは、推し量ることしかできないが。
「神子の力がどれほどのものかはわからぬが、もはや、怨霊は平家の絶対的な兵力とは呼べぬだろうよ」
「……そう、ですね」
これまでの戦においても、怨霊が率先して前面に出されて使われていたわけではない。指揮権を握る将臣が怨霊の使用に否定的なためである。だが、それでもいざとなれば戦場に投入されたし、少なくとも切り札としては非常に有効であった。相手の陣にある程度以上の力を持った陰陽師や僧侶の類がいない限り、その存在に対抗する術がなかったのだから。しかし、怨霊を封印するという白龍の神子が現れたのなら、まるで意味が違ってくる。
「神の名による大義は重い……あるいは院のご威光さえ、龍神伝説の前には霞みかねん。それを、鎌倉殿がどこまで利用するかは、まだわからんが」
とつとつと紡がれる知盛の言葉の意味の重さを噛み締め、は小さく息を呑む。
神の加護を掲げるとは、すなわちその寵愛の筆頭にあると謳うということ。人々の信奉を集められるということ。それは、現人神であるはずの宮筋と拮抗することも可能であり、勢い次第では呑み込むことさえ可能になる絶大なる大義。
「では、その大義を“殺せる”力を持つモノがあると知れば、どうすると思う?」
そして、続けられたのは問い。うっそりと、昏い翳を孕む笑みを刻み、知盛は静かに目を見開いたを見つめている。
Fin.