朔夜のうさぎは夢を見る

えらぶみち

 義仲は平家にとっても厄介な敵だったが、それは相手が義経であってもそう変わらないらしい。互いに睨み合うことに必死で西方への意識が薄れているのをいいことに、将臣を総大将とした福原奪還は、特に犠牲も出さず、あっさりと成功の内に終幕した。
 さすがは還内府と、その名声を高める一方ですぐさま気を抜かずに周辺の要所の防備を固める指示を出すあたり、随分と様になってきたじゃないか、と皮肉げな笑い混じりに嘯くのは、知盛なりの素直な称賛である。
 とはいえ、作法の類はまだ危うげが残る。年の瀬に月天将の指揮権について交渉に訪れた際に宣言していたとおり、福原警護の一切を知盛に託し、将臣は京へと向かうための準備に奔走していた。その一環として、経正を相手に行儀作法と口上の一夜漬けに勤しんでいるのだ。
「あー、もうダメだ。目ぇ回る。つーか、頭がパンクする」
「回りません。パンクもしません。逆に足りません」
 どこでいつの間に調達したのか、恐らく酒が入っているのだろう瓶を片手に夕刻、ふらりと知盛邸に現れた将臣は、留守にしている主の帰還を待つと言ってあがり込み、今はを相手にその日までの学習内容の復習中である。作法の叩き込みは一通り終わったからと、今度は院相手の交渉に備えるため、手の空いている首脳陣を捉まえての予備問答を予定しているらしい。
 そのために、本日の課題は平家と院のこれまでの関係の総さらい。ついでに血縁の話やらこれまでの戦の背景となった政争の話やら、相当に盛りだくさんのメニューであったという。ひとしきり愚痴混じりのそれらを聞きながらぽつぽつと記憶違いやら補足説明やらを加え、は情けない声を上げる総領にぴしりと言い据える。
「むしろ、どうしてこれだけ日本史に詳しいのに、そういった部分が抜けていらっしゃるのかがわたしには不思議でなりません」
「日本史に詳しいんじゃなくて、平家物語に詳しいんだよ」
 出入り自由の許可を得ている知盛の曹司で脇息にもたれ、将臣は上目遣いに、ありありと疑問を浮かべているを見やる。


 思い返すまでもなく当時から本当に不思議ではあったのだが、何のこだわりがあったのか、将臣の祖母は孫が幼い頃からことあるごとに平家物語を謡い聞かせていたのである。幼心に物語の内容を恐ろしく思いながらも、音の美しさはやはり長く伝えられているだけあって群を抜いている。意味もわからずいつの間にか諳んじ、その上で歴史の教科書やら資料集やらを眺めれば、嫌でも知識は身につくというもの。
「ウチのばあさんな、和服を普段着にするような人だってのもあったのかもしんねぇけど、そりゃあ臨場感たっぷりに謡うわけだ」
 あれは、語るのではなく謡っているのだと、将臣は後から知った。琵琶こそ弾いていなかったものの、独特の節回しは、恐らく音曲を前提としたものなのだろう。清盛に拾われてからはじめて琵琶の演奏を聞いた際に真っ先に思い出したのが祖母の謡う声だった、というのは、一種のフラッシュバックであったと確信している。それほどまでに、平家一門の辿る道筋は、将臣の中に深く刻み込まれているのだ。
「まあ、お陰でこうして“還内府”なんかやれているわけだから、ばあさんの趣味には感謝してるけどな」
「粋と申しますか、随分個性的なお祖母様ですね」
「ああ、ちゃきちゃきの文化人だったぜ。日本舞踊もやってたし、正月には百人一首をやらされたし」
 言ってふと視線を遠くに飛ばし、将臣は静かに息を吐く。
「譲――俺の弟な。アイツは真面目だから、中学入ってからその辺の歴史書を読んだり、現代語訳の平家物語を読破したりしててさ」
 ふと紡がれた声音はやわらかく、切ない郷愁に濡れている。
「俺も、そんぐらいやっとけば、もっと効率よく動けるのかも知れねぇけど」
 めんどくさかったし、アイツいないしなぁ。言って乾いた声で短く笑い、将臣は頭をかく。


 と違い、将臣は水の流れに巻き込まれるようにしてこの世界へ運ばれたのだという。その際、弟と幼馴染の少女が共に巻き込まれたのだとも。平家に身を寄せてから半年ほどはその捜索に躍起になっていたようだったが、家人やら伝手やらを使って情報を集めさせても手がかりひとつ集まらないことに、彼らはこの世界には来なかったのだと、そう結論づけたらしい。
 すべては知盛経由で聞いた話であり、将臣自身からは終わったこととして聞いただけであるため、としては同情しようにも実感が湧かない。ただ、将臣の言うとおりであれば良いと思う。たったひとりで見知らぬ世界に投げ出されることの辛さは知っている。そして、巻き込まれたかもしれない誰かを案じる苦しさは垣間見た。いずれにせよ、知らずにすむならそれに越したことはないと、そうとしか言えないのだ。
「……必要なのは、そういった知識ではありますまい」
 だから、は将臣が振り返って悲しげな顔をするのを止めようとは思わない。けれども、次に前を向く手助けはしたいと思う。


 そっと言葉を紡ぎ、は淡く微笑む。
「その通りにしか進まないとわかっているゲームや物語ではないのですから、何よりも必要なのは、状況を読み、それらに応じて判断する見識の深さです。将臣殿にはその眼識がおありだと思いますし、今、経正殿がお教えしようとしているのは、判断に必要となるだろう知識です」
 そして、それらの多くはきっと後世まで残ってはいないだろう。すべてを残すにはあまりにも煩雑で、史書に記されるには必要ないと判じられた愛憎劇の内幕こそ、将臣が今必要とする知識なのである。
「室山の戦いにおける総大将が還内府であったと、一体どこの史書に記されています? 平家は怨霊を用いて戦ったと、そんな史実がありましたか? なかったのなら、もはやわたし達が知りえた知識は、かろうじての参考程度にしか役立たないと思われませ」
 反論は受け付けないとばかり、一息に言い切ったに、目を見開いて聞き入っていた将臣はしみじみと呟く。
「………胡蝶さんって、時々すっげー強気にポジティブだよな」
「女は度胸です。割り切って受け入れて、現実を見ていないと、生きていけませんから」
「お見それしました」
「お褒めにあずかり、恐悦至極と存じます」
 おどけた感嘆ににっこりと、大袈裟なほど艶やかに笑って応じたと笑いあって、将臣は小さく「サンキュ」と呟いてはにかんだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。