朔夜のうさぎは夢を見る

えらぶみち

 しばらく呆然とした様子で主の退室した後の揺れる御簾を眺めていたは、心底申し訳なさそうな声で呼ぶ声に、はたりと瞬きを落とした。
「……悪ぃ」
「心にもない謝罪は、相手への侮辱ですよ」
 ばっさりと切り返し、そしては溜め息をつきながら首をめぐらせる。
「そして、必要のない謝罪は、あなた自身への侮辱にもなります」
「じゃあ、」
「お断りすることはできません。それを、あなたはご存知のはずです」
 還内府殿。そう呼びかければ、今度こそ苦りきった表情で将臣は視線をさまよわせる。
「わかってるよ、そんなこと」
「けれど、そうせざるを得なかった――でしょう?」
 ぎりぎりと奥歯を軋ませながら絞り出された声には、そっと、やわらげた声音を返す。別に、だって情勢が読めていないわけでもなければ、将臣が何も考えずに指示を出してきたとも思っていない。ただ、あまりにもあっさりと了承を繰り出した主に、自身の価値の重さ、というものを驕っていたのかと自省していただけである。
 名が一人歩きをはじめた頃から、いつか来ると覚悟はしていた。だから、仕方のないことだとも、妥当な判断だとも思う。むしろ、これまでよくぞ見逃してくれたと思う。だからこそ、困らせるつもりはないのだ。
 弾かれたように、縋るように見返してきた紺碧の瞳を真っ直ぐ覗き込み、は苦く笑った。
「わかっています。将臣殿がどれほど平家のために苦心して、どれほど頑張っておいでなのか」
「俺の苦労なんて、そうでもねぇよ」
「ご謙遜なさいませんよう」
 それこそ苦りきった声で返してきた将臣を宥めるように笑いかけ、は続ける。
「常に気を張って“還内府”であり続けるだけでも、十分なご苦労にございましょう。わかる、などとは申し上げませんが、お察し申し上げてはおります」
「で、その還内府をより“還内府”たらしめるために、知盛がどんだけ根回しをしているのかもだろう?」
「それこそがご自身の役所と、知盛殿は仰せですよ」
 けろりと応じれば、盛大な溜め息にからめて「敵わねぇよな」とのぼやきが落とされる。


 還内府の名は大きく、重く、けれど将臣はそう呼ばれたところで唐突に軍事のすべてがわかるようになるわけもないし、政治の駆け引きができるようになるわけでもない。完全に将臣を亡き重盛と勘違いしているらしい清盛の手前、形だけでもということで始まったはずの“総領ごっこ”は、思いがけない伏兵の援護を受けて、ごっこ遊びから本格的な立場へと色味を変えた。
 その伏兵こそが、今でも将臣の影で実質的な総領としての采配を執り行う知盛である。
「一体俺の何をどう気に入ったのかは知らねぇけど、ホント、よくやるよ」
 将臣としては、ほんの少しだけ口出しができれば良かったのだ。南都に発つ知盛を捉まえて、几帳の影でやんわりと忠告したように。そんな希望を、どうやらあまり役に立たなかったその忠言が何らかの作用でももたらしたのか、知盛は実に都合よく聞き流し、にたりと嗤っていつかの宵に囁いた言葉を繰り返したのだ。滅び以外の道を見せろ、そう言ったろう、と。
「……知盛殿ばかりを庇うわけではありませんが。遅かれ早かれ、将臣殿はそのお立場に押し上げられたことでしょう。こと、都落ちからこちら、あなたの笑顔に励まされる者は数知れません」
「あ、いや。勘違いさせたんなら悪い。別に、俺は知盛を責めるつもりはねえんだ。還内府の立場を受け入れたのは俺だし、色々口出しできるこの立場は正直ありがたい。それに、重盛さんの代わりを演じろって時忠殿とかに言われた時、庇ってくれたのは知盛だったし」
 そっと添えられた言葉に慌てて手を振ってから、将臣は燻っていた疑問を恐る恐る口に出す。
「だからさ、てっきり俺が“還内府”なんて肩書きを使うのに反対なのかと思ったら、気づけば表向きには総領交代劇だぜ? しかも根回しはばっちりで、汚れ仕事とか、俺のわかんないところは全部こっそり片付けて。……俺、アイツが何考えてんのか、全然わかんねぇ」
 そんなことを言われても、にはもっとわからない。話題となっている一連の騒ぎがあったころ、は体調を崩して前後不覚の状態で褥に放り込まれていた。目を覚まして動けるようになるや、もはや言い訳無用とばかりに牛車に放り込まれ、貴船に連れていかれて精進潔斎しておけと命じられた苦行の記憶は、今だからこそ笑って流せる思い出なのだ。


 とはいえ、事の中心から外れ、情報源が当人たちという多少の偏りはあれど、第三者だからこそ見えるものも存在する。
「これは、あくまで私見ですけれど」
 言って悶々と考え込んでしまっている将臣におっとりと声をかければ、はたとめぐらされた双眸がを鋭く射抜く。その視線の強さが心地良いのだと、笑っていた主の気持ちがわかると感じるのは、感化されたからなのか、そもそも好みが似通っているのか。
「知盛殿は、将臣殿に、ご自身の希望を重ねられたのではないでしょうか」
「………重盛さんを?」
「そういう夢想をなさる方ではないと、思っていますが」
 自虐的な返しには、けれど断定的な否定は与えなかった。そのことについては、自身も聞けずにいるのだ。
 還内府と呼ばれ、清盛や末端の兵にはそれこそ重盛の怨霊と認識されがちな将臣を、正しく“有川将臣”という個人としてはきと認識している一方で、知盛は時折、とても遠い目で将臣を見やっている。巧妙に隠されたその表情を垣間見たことは、それこそ数えるほどのことではあるものの、だからこそその瞳に滲む郷愁と切なさが際立っていた。
 だが、はそこに篭められた意味を知らないし、だから半端なことは言わずにおこうと決めている。それに、知盛は将臣をこうして己の庇護下に招いては、そつなく息抜きの場を提供している。将臣がそのことに気づいているか否かはともかく、そういう配慮こそ、知盛が将臣を“将臣”として好んでいることの証であると、は知っている。
「うまく言葉にできないのですが、将臣殿は、とても眩しいのです。どんな時でも曇らない、本当に眩い光を纏っていらっしゃいます。それを視て、感じるのです。あなたは、往く道を照らす光を宿していらっしゃるのだな、と」
 にとって、それは知盛に感じたのとはまた違う、傍に在りたいという衝動だった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。