えらぶみち
時間が取れるたびにの許を将臣が訪れるのは珍しくもないことだったが、今日のような、軍議の続きといった様相での訪問は初めてのことだった。は月天将などという呼び名を持つ、いまや立派な平家の将が一人。しかし、あくまで所属は知盛個人なのであり、将臣もそこは心得たもので、の出陣やら配置やらに関しては一切の口出しをしてこなかったのだ。
「折り入って、月天将である胡蝶さんと、その主である知盛に頼みたいことがある」
だが、状況は予断を許さない。ここまでは順調に勝ち上がってきた。そして、この先。
一門の行く末への決定打となるのは、ここから一年ほどの戦果。それを正しく『知って』いればこそ、還内府たる将臣は、有能な手駒を遊ばせておくという選択肢をいよいよ見過ごすことはできなくなっていた。
「月天将を、俺の采配で動かせる権限が欲しい」
単刀直入に、将臣は一切の修辞を入れずにそう切り出した。
「福原を取り返して、それから俺は院を仲立ちに源氏と和議を結べないか、交渉してみるつもりだ。けど、うまくいく保証はないし、それまでにも戦はあると思う。その時に動かせる将が、一人でも多い方が助かる」
「わたしに、配下に降れとおっしゃっていますか?」
「違う、そうじゃねぇよ」
ひやりと返された言葉にゆるりと首を振り、淡く苦笑を浮かべて将臣は剣呑な気配を撒き散らす知盛とを順に見やる。
「基本は今までと一緒でいい。俺は月天将のことには一切関知しない。けど、正直なとこ、胡蝶さんを単独で動かした方がバランスいいな、って思うことがこれまでにもあってさ。そういう時だけでいいから、別働をお願いしたいんだ」
月天将の名は、平家の兵達にとって非常に重い。将臣は、初陣に出されてからのこの一年と少しほどで、将の存在が左右する軍の士気の重要性を嫌というほど噛み締めてきた。だからこそ、確実に士気を高めることのできる知盛と月天将という二つの名が常に共にあることに、不便を覚えることも少なくなかった。
それでも、これまではよかった。相手は正統派のもののふであり、トリッキーな策を用いて翻弄するのはもっぱら将臣の仕事だった。だが、次からは違う。
「なぜ、今になってそれを?」
今さらだろうと、知盛の指摘はもっともであり、将臣が待ち構えていたもの。だからこそ、将臣は一層の熱を入れて言葉を継ぐ。
「義仲で源氏の策の奇抜さはわかっただろ? こっから先は、これまでの豪族の平定とは違う。源氏の連中と戦うんだ」
あの義経が出てくるのだと、そう言ってしまえればどれほどよかったか。だが、将臣やにはわかっても、知盛にはわからないだろう。今はまだ、ろくに名など上げていない、おそらく平家の面々にとってはかつて養った幼子という認識しかないだろう、史上稀に見る戦術の天才。そして、月天将を動かす権限を得るためには、の主である知盛をこそ説得しなくてはならないのだ。
「もう負けられねぇ。源氏方に力があると思われたが最後、和議はおろか、血を絶やすまで奴らは追及の手を緩めないだろう」
「……血を絶やさねば、繰り返すと。それは、父上が鎌倉殿を見逃したことにて証明されたゆえな?」
「そういうことだ。だから、こっちは最低でも向こうと互角、できればそれを凌ぐぐらいの力があるってことを見せ付けた上で、何としても和議に持ち込みたい」
その実現には、この時代の戦術的には奇策としか思えないやり方で攻めてくる源氏勢を確実に打ち破る必要があり、そのために張る罠は、二重、三重にも張り巡らせる必要があるのだ。
「手は多いに越したことはないし、月天将がいるだけで、兵の士気がまるで違う。それに、俺やお前と違って顔を知られていない胡蝶さんは、はっきり言って貴重なんだ」
だから、頼む。そう言ってやおら姿勢を正し、将臣はその場で深く頭を下げる。
返答の返らない沈黙を、ひたすら床を睨みながら待っていた将臣は、やがて深々と吐き出された溜め息に、薄暗い視界の中でそっと口の端を緩めた。
「承知した……。顔を上げられよ、還内府殿」
吐息の具合で相手の心情を図れるようになったのだから、自分もよほど平家に染まったものだと。嘲りではない呆れの笑いを己に向け、予想どおりの許諾の声に将臣はもう一度頭を下げて礼を紡いでから顔を上げる。
「だが、条件がある。……すべて、指示の内容を含めて俺にも話を通すこと」
「ああ」
「極力、これの正体を知るものを同じ陣に配置すること」
「出来る限りそうする」
「そして何より、当人を説得すること、だ」
「もちろん」
言って向き直った先には、愕然と目を見開いて知盛を凝視しているがいる。おそらく、こうも簡単に了承されるとは思わなかったのだろう。将臣としては嬉しい誤算だったが、にとってみれば、手酷い裏切りとでもなろうか。けれども、将臣にはせっかくの好機を逃すつもりはない。
あとは当人同士で交渉しろと、部屋の主であるくせにさっさと腰を上げ、知盛は流麗な所作で御簾を持ち上げる。
「一軍の将としてあれるだけの実力は、俺が保証しよう……。あとは、お前自身で“道”を定めればいいさ」
ただ静穏な声でそう言い置き、一度も振り返らないまま、知盛は静かに御簾の向こうへと衣擦れの音を響かせていった。
Fin.