彼らの関係性
衣擦れの音さえささやかに頭を持ち上げた女は、ごく慣れた様子で膝を進めて知盛の隣に座を定めると、揃えられていた瓶子に手を伸ばす。持ち上げ、促すように捧げられてつい反射的に杯を差し出した将臣を筆頭に、居並ぶ四人の杯が満たされる。
「存分に、楽しまれよ」
掲げた杯に月を映して短く告げる知盛の声を合図に、静かな酒宴が幕を上げる。常と同じく、見知った顔同士の、実に気安い酒宴。けれど今宵ばかりは銀色の獣の隣に、凛と咲く蒼黒の花がある。
それは、戦場で敵にも味方にも恐れられ、返り血に染まって恍惚と嗤っている獣とは無縁の、ごくありふれた青年の様相だった。穏やかに、穏やかに、やわらげられた知盛の気配は深く、寄り添う女との間に漂う空気に齟齬はない。自然に、あるべき姿として、彼らは互いに寄り添い合っている。
「アンタが、蓮華の君なのか?」
「そう呼ばれることもあります」
しばらく二人の様子をぼんやりと見やるだけだった将臣は、かたりと知盛の杯が床に置かれたのを合図に口を開いた。答えはどこか曖昧だったが、さもありなん。将臣は目の前の女房に見覚えがある。これまでも、知盛の邸を訪ねた折りに何度か見かけている。そして、その際には彼女は別の名前で呼ばれていた。
「あ、そうだ。知盛から聞いてるかもしれないけど、一応、自己紹介な。俺は有川将臣っていうんだ。現代からこっちに流されて、清盛公に拾われた。今は還内府なんつー肩書きつきだ」
「お見かけしたことはありましたが、きちんとご挨拶するのは初めてでしたね。知盛殿付きの女房としてお仕えしております。名を、通称は胡蝶と申します」
投げかけに返された微笑はやわらかく、しかし声は芯の通った強さを感じさせる。なるほど、この一癖も二癖もある男の専属女房が務まるぐらいなのだから、彼女もまた一筋縄ではいかないのだろう。そして、名乗りによってこれまでずっと燻っていた違和感もまた氷解する。
「ああ! だから重衡が胡蝶殿って……」
「なんだ、お前やはりわかっていなかったのか」
ことここに至ってようやく相関関係が把握できた将臣に、呆れ果てた知盛の声がかかる。普段ならばすかさず反論を返すところだが、今日の将臣はそれよりも優先させたいことがある。不満を篭めた視線でじろりとねめつけ、しかし文句はすべて飲み込んでおく。
もっとも、その間にも知盛や重衡らの酒を干す速度は変わらない。そつなくさりげなく、空いた杯に次々と酒を注ぎ足し、空いてしまった瓶子を邪魔にならないように下げ、新しいものを手繰り寄せる所作には一切の澱みがない。流れるような動作を見るともなしに見やり、懐かしいことこの上ない厚焼き玉子を頬張ってから将臣はしみじみと呼気を吐き出す。
「知盛に聞いた。あんたも流されたんだってな。どんぐらいこっちにいるのか、聞いてもいいか?」
ふわりと口の中に広がったのは、仄かな磯の香りだった。厚焼き玉子は、正確には出汁巻き卵であったらしい。かつて口にしていたものと大分趣は異なるものの、それでもこの時代にはありえない調理方法に、ひたすらに郷愁を噛み締める。
「かれこれ六年になりますね」
聞き流してもいいようにとごく軽い口調で投げかけた問いには、やわらかな声が返された。そこには、痛みも悲しみも感じられない。将臣が未だに割り切れずにいるものをすべて昇華したのだろう、穏やかな声だった。
「はじめは小さなお寺の住職様に拾っていただきました。その後、知盛殿とお会いして、働き口を探していると申し上げましたら、女房として召し上げていただいたんです」
月明かりに濡れる庭をぼんやりと見ながら、はそっと過去を紡ぐ。
「本当に、好くしていただいています。ここに帰れば良いと……そう言っていただいた時から、わたしにとって、平家こそが帰るべき場所となりました」
「……そっか」
俺と一緒だな、と。思わずぽつりと呟けば、めぐらされた視線がふわりと和んでそうですねと囁き返す。拾われて、受け入れられて、救われて。たとえ怨霊を生み出すという世界に刃向かうような罪を重ねようと、一門を見捨てられないのは、そのあたたかな懐の深さを知っているから。
世界の無常さを知ればなお、包み込んでくれた腕を裏切ることは出来なくなる。同じ葛藤と覚悟を相手の目の奥に認め、将臣は知らず知らずのうちに詰めていた息を細く長く吐き出す。
故郷を同じくする二人の小さな遣り取りを黙って見守っていた重衡と経正が、おもむろに厚焼き玉子を咀嚼して不思議そうな、興味深そうな表情を浮かべている。しんみりと沈みかけていた場の空気を払拭するように、その様子に気づいて朗らかに微笑んだが「お口にあいますか?」と話題を転換させる。
「初めて食しましたが、中々に趣深い味わいですね」
「本当に。これも、胡蝶殿のお国の料理なのですか?」
「味付けの具合は違いますが、きっと懐かしんでいただけると思ってご用意いたしました」
そう説明がなされる傍らで、知盛は特に感慨もなく口を動かしている。
「知盛は驚かねぇんだな。もしかして、日常茶飯事?」
「いいえ。普段はこんなに贅沢なお食事はご用意できません。今宵は総領殿が直々においでになるから、と、心ばかりではありますが、贅を尽くさせていただきました」
「そうなのか? 無理させたなら悪ぃな……」
「ご心配には及びません」
自給自足を指示する立場として、無論将臣は一門の食糧事情が決して良くないことを知っている。そんな中で卵をふんだんに使うことがどれほど非常識かにようやく思い至り、苦虫を噛み潰す勢いで眉を顰めたものの、返される笑みは実に軽やか。
「日頃からかくな贅沢をするのは無理ですけれど、一時ぐらいならば何とか融通を利かせていただけます。知盛殿は、領民にとても慕われていますから」
さらりと告げられた根拠には思わず首を傾げる将臣だったが、その疑問を質すよりも先に上がる声がある。
「……と、いうことは。お前、また里まで出ていたのか」
振り返った先では、わかりやすく呆れと不機嫌さを滲ませた知盛が、大袈裟なまでの溜め息をついていた。
Fin.