彼らの関係性
一旦大宰府に落ち着いた平家の面々は、しかしすぐさま土地の豪族に攻められ、一息つけたのはそこからわずかに北上した知盛の知行国たる長門国に移動して後のことだった。季節は折しも紅葉の色づく頃。軍事的な拠点を築かんと沖にある彦島に砦を整備する一方、将臣の「自給自足するぞ!」という鶴の一声により、手隙の者たちは慣れない農作業に目を回している。
西国での勢力安定を図ると同時に、水島でのごたごた以来、源氏方との大きな戦がないのをいい機会とばかり、内外における政治的地盤固めにもひたすら精を出していた将臣に酒宴の話を持ちかけたのは、今日も今日とて気だるげな空気を引きずって歩く知盛だった。
「珍しいな、お前からそんなこと言うのは」
残暑の厳しさもようやく去り、涼風に揺れる秋の草花が美しく庭先を彩る。大概いつでもやる気というものに縁のない知盛だったが、そもそもの体質に堪えるのか、夏の間はその傾向が強くなる。だるい、だるいとの口癖はもはや聞き飽きたが、かといって聞き流していれば本気で体調を崩して卒倒するのだから性質が悪い。それでもどこかしらで時間を見つけてはなすべき仕事をそつなくこなしているあたり、本当に侮れないというのが将臣からの素直な評価である。
風が涼しくなり、夜が過ごしやすくなりはじめた頃から、何やら本来の仕事以外で動きをみせているようだったが、決して洩らそうとしないため、その真意は見透かせない。秋になったから活動的になったのか、取り巻く情勢の小康状態を狙って動いているのか。
そもそも、官位と共に朝廷から没収されたとはいえ、長く治めてきた知行国という地の利を活かし、一門が何とか落ち着けるように事前に根回しをして歩いたのは知盛である。その続きやら後処理やらと同時に、周辺各勢力との折衝に飛び回っている忙しさが一門の中でもずば抜けているのは、総領という肩書きゆえにほぼすべての情報を掌握している将臣こそがよく知っている。
下手に喰いついて機嫌を損ねては厄介であることも把握しつつある昨今では、決して一門にとって害になることをしないという知盛の同族愛を信じての放任具合が、以前よりも度を増したというだけのこと。同じく何かしらの動きに勘付いたらしい重衡や経正も訝しげな表情をしてはいたが、周囲の視線を気にも留めずに己の判断で動き回るのは今も昔も知盛の常と、やはり傍観を決め込んでいるから、将臣の処置はあながち間違いとはいえないのだろう。
「……珍しい、とは。お前があれに会いたいからと、口実を求めたのではないか……」
いずれにせよ、知盛から会話のついでに個人的な酒の席への誘いを受けるのはともかく、ある程度形式にのっとった招待を受けたのは記憶にある限り初めてである。率直な感想に端を発し、そのままとりとめなくぼんやりと思索に耽っていたところに与えられたのは、不機嫌さが滲みはじめた揶揄の口上。
仕事の速さと正確さ、またその立場の便利さと重要さから、“還内府”として頼みごとをすることはあっても、“有川将臣”としての願い事は、最近では多くない。政治的な意味での宴席の話なら経正に任せるだろうから、これは個人的な話。そう判じて慌てて記憶を手繰れば、思い当たるのは大宰府を追われる少し前の、借り宿の濡れ縁における簡素な酒宴。
「あ? ああ、あれ!」
「………お忘れになるほどの瑣末事ならば、なかったことにしても?」
「いやいやいや、お前、覚えててくれたんだな!」
たっぷりと含みを持たせた嫌味を遮り、意外さと喜びと感謝を篭めてばしばしと肩を叩く。そういえば、溜まっていた雑務もあらかた片付き、今夜あたりならば時間を取れる。決しておおっぴらに口にはしないものの、そういった細かな配慮ができるのもまた、知盛の隠された優しさなのだと将臣は知っている。
六波羅で見た数々の邸のような豪奢さはないが、庭に野の花が仄かな色を添える、雰囲気のよいそこが知盛の住居だった。元は知盛が国司として赴いていた際の邸だというそこを、内裏兼、一門中枢の者たちの住居としているため、正確には邸の一角というべきか。日が暮れた頃、共にいかがかと誘いに来てくれた重衡を伴って初めて知盛の私的な居住空間に足を踏み入れた将臣は、しかし、その穏やかに充たされた空気に思わず歩みを止めてしまう。
「どうなさいました?」
「あ、いや。なんつーか、雰囲気が違うっていうか……」
「ああ。それはきっと、結界のせいですね」
「けっかい?」
耳慣れない言葉を繰り返し、先に進んでしまった重衡の隣に追いついて問い返した将臣は、笑いを押し殺している淡紫の双眸を見返して説明を乞う。
「兄上は、陰陽術の類にも心得があるのです。それで、むやみに怨霊や悪しきモノが邸に入り込まぬようにと、日頃から自邸には結界を張っておいでなのですよ」
「……蓮華の君のために?」
「用向きがあって父上方の住まわれる対屋にお泊りになられる折りには、面倒だとおっしゃって、張られていませんね」
やわらかに紡がれる声は、郷愁の色が強かった。ふっと遠くを見透かすように、瞳が過去をさまよっている。
「胡蝶殿は、兄上にとって本当に特別な御方なのです。……あの方のお側では、兄上は平穏に満たされている」
日常に厭き、軍場で目を耀かせる知盛を正しく知っていればこそ、その重衡の告白は将臣にとって計り知れない衝撃をもたらす言葉。
「こうして垣間見ることを許されたということは、将臣殿もまた、兄上にとって特別な存在ということですよ。ですから、よくご覧になってください」
兄上が守る、その平穏を。
微笑んだ重衡は将臣の反応を待たず視線を現在に戻すと、ちょうど辿りついた階を前に沓を脱ぎ、出迎えに現れた女房に兄の許への案内を命じた。
主人の気質を表すのか、すれ違う女房や庭に見かける警護の郎党は、皆余計な口を聞こうともせず、凛と背筋を伸ばした印象の強いものばかりだった。同じ邸内の離れの対屋というだけなのに、まざまざと違いを見せ付ける、静謐な、それは冬の気配にも似た清浄さ。なるほど知盛らしい空間だと、口の端を吊り上げた将臣は、先を歩く重衡が会釈を送ったことに気づいて視線を進行方向へと戻した。
「お、経正。早かったな」
「将臣殿、重衡殿。お先に失礼しています」
見やった先には、廊の一角に円座を敷いて庭を眺めていたらしい見慣れた人影。立ち上がろうと腰を浮かせかけるのを手で制し、にっと笑えば穏やかな挨拶が返る。
「ようやくお揃いか?」
「兄上。今宵はお招きいただき、ありがとうございます」
三人が腰を落ち着けたのを見て深々と頭を下げて立ち去る女房と入れ替わりに、邸の奥からゆらりと姿を現したのは、狩衣を着崩した知盛。弟の丁重な礼にやわらかな視線を投げかけ、背後に控えていた女房に膳の用意を促す。
「……経正殿と重衡には、見慣れんものとは思うが」
そつない動きで整えられる膳の上には、見慣れた肴と見慣れない肴が乗せられていた。思わず皿の上を凝視している三対の視線に小さく笑い、知盛は重ねてあった杯を手ずから配る。
「………これ、厚焼き玉子か?」
ぼんやりと杯を手に、ぽつりと声を落としたのは将臣。耳慣れない単語に重衡と経正が首を傾げているが、いつものように説明をするゆとりはないらしい。
「それと、“てんぷら”もどき……だ、そうだ」
「もっと色々作りたかったのですが、あいにくと、わたしの腕ではそれが限界でしたので」
知盛の説明に付け加えるように、苦笑の滲む穏やかな声が降ってくる。はたと振り返った先には、花菊の重ねを身に纏った女房。重衡と経正がゆるりと頭を垂れるのは見えていたが、将臣は動けない。
「還内府様のお口にあえばと、そう願うばかりでございます」
膝をつき、流麗な所作で礼を執るその女が自分と同じ現代の住人だとは、とてもではないが何かの冗談のようにしか思えなかった。
Fin.