朔夜のうさぎは夢を見る

彼らの関係性

 日頃は呼吸をするのにも等しく身に纏っている貴族の嗜みをどこかに置き去りに、ひとしきり笑い終えたところでまず声を取り戻したのは経正だった。どうしても揺らぎが残る声で、それでも穏やかに未だ驚愕の淵から帰ってこられない将臣を呼ぶ。
「ですから重衡殿が申し上げたでしょう? 知盛殿には、蓮華の君がいらっしゃると」
「……知盛が、真面目に恋愛……?」
 想像つかねぇ、と。しみじみ繰り返す姿は、将臣の受けた衝撃の深さを物語る。もっとも、同じ衝撃を重衡や経正たちも幾年か前に受けているから、その心情は理解できないでもない。だからこそ、ちらと笑みを交わしてから今度は重衡が言葉を継ぐ。
「では、幾年にもわたってひたむきに兄上が恋い続けているというのは、夢のようだと思われましょうか」
「まだ落とせてないのか!?」
「………そのような粗野な物言いをするな、不愉快な」
 もはや絶叫と言っても良い勢いの将臣に、いまだ眉間の皺の解消されない知盛が言い返す。至極まっとうな切り返しは、常ならば知盛以外の面々こそが口にする常套句。もっとも、知盛のことをある程度理解できる関係にあれば、誰もが一度は驚きに声を失うのだから、むべなるかなというものか。
 そして、ある程度以上に知盛のことを知るものは、続けて納得するのだ。わかりにくく装われた向こう側の、深く、あるいは欲とも言い換えられるほどの情愛の存在に。


 ひとしきり驚愕に耽った後、やはり将臣もまたいつかの重衡や経正と同様に、すとんと表情を納得したそれへと落ち着かせた。
「あー、なるほどな。ようやくわかった」
「何が、でございますか?」
「知盛が、自分とこの邸に滅多に人を近寄らせないって噂の真相」
 そのままふわりと目尻を和ませ、もてあそんでいた瓶子から手酌で酒を舐めて将臣は笑う。唐突とも思える話題の変遷に重衡が問いかければ、その笑みは一層やわらかにそよぐ。
「その人を、とにかく面倒ごとに巻き込みたくないってとこだろ?」
 声は深く、穏やかだった。場に居合わせる中で最年少だというのに、見流す視線は最年長の経正にも勝るほどに深い。その深奥たる性情こそ、彼の真価。兵を、女房を、一門の者たちを惹きつけてやまない、甘くやさしい彼の情愛。
「さすが、還内府殿はご慧眼であらせられますね」
「まこと、我らのことをよくご理解いただいていると思います」
 くすくすと笑う経正に重衡が追従し、その遠まわしな肯定に満足した将臣が見やる先で、当人たる知盛はようやく眉間の皺を解き、目を細めて艶やかに微笑んでいる。


 のどかな時間だった。先般の戦の惨劇も、都落ち以来どこかにずっと付き纏っていた暗澹たる空気の欠片も何もない酒宴。友、あるいは仲間とも呼べるだろうかけがえのない相手の恋を肴に、その穏やかさに杯を掲げる。
「なあ、やっぱり会いにいっちゃマズイか?」
「……会って、どうする」
「興味があるだけだよ。お前がそれほどに惚れこんで、守り続ける人に」
 やわらかな静寂をそっと拭って将臣が再度ねだれば、その理由に穏やかな忍び笑いがさざめく。
「やっぱ美人なのか? 年はいくつなんだ?」
「………自分で、確かめればいいだろう」
 目を輝かせて問いを重ねる将臣を鬱陶しそうに手で払い、ついでに眼前につきつけた杯に酒を要求する。つい反射的に瓶子を傾けてから「しまった!」と叫んだ将臣は、満足そうに笑って酒を呷る知盛にがっくりと肩を落とし、苦笑というにはやわらかな表情を向けて、与えられた言質に礼を返す。


 床に置かれた瓶子をすかさず取り返し、顔をみせた寝待月を肴にひとり黙々と杯を空け続ける知盛はいつものこと。せっかく許可が出たのだからと、ならば観月でも口実にするか、それとも暑気払いが無難かと、既に将臣たちの関心は、次の宴の席にある。
「おー、なんかテンション上がってきた! 楽しみだな」
「てん、しょ……?」
「わくわくしてるってことだ。あ、そういや知盛。お前あんまりカタカナに驚かないと思ったけど、その辺もやっぱり関係あんのか?」
「それは単に兄上の性格です。それに、胡蝶殿は元から、奇抜なお言葉はお使いになられませんから」
 きっぱりと断じた重衡の口ぶりは遠慮会釈など微塵も存在しないものだったが、将臣の放つ唐突な横文字に戸惑う様子をみせたのが経正だけという事実から透けて見えるのは、この兄弟の根本的な類似性である。
「ま、楽しみだってのは本当だぜ? 知盛がずっと傍にいたいって思った人なんだろ? だったら、イイ女に決まってる」
 お前、何に対しても見る目があるもんな。そう言い放つ声に気負いはなかったが、その知盛が現状の中で最も重きを置いているひとりが自身だと自覚させたならば、その笑みはどう崩れるのか。もっとも、その無頓着さもまた愛すべき要素なのであり、集う面々は誰も、それを乱すような無粋な真似は働かない。
「……お前にはわからんだろうさ、あれの良さは」
「ずいぶんな惚気じゃねぇかよ」
 皮肉に返された憎まれ口にはゆらりと杯を揺らし、流し目を送ってから知盛はただ美しく笑う。
「ああ、惚気てやるぜ? 何せ、時空を超えてまで手に入れた、俺の胡蝶だからな」
 それは、心安いと判断された相手だけが見ることを許される、知盛の魂の深部。ひたすらに人間くさいくせに世俗を超越した美顔に素直に見惚れて、将臣は改めて、歴史と謳われるものに抗うことを決意するのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。