朔夜のうさぎは夢を見る

はじまりのおわり

 清盛の急逝の報から、いよいよ知盛はその忙しさを増していった。頼朝追討の令旨はいまだ有効である。いや増す源氏軍の勢いに、知盛は重衡に挙兵を命じた。軽やかに笑い、言葉も甘く、行動のすべてが流れるようにたおやかな重衡は、しかし武勇が広く知られた剛の者でもある。喪に服すべき時期だからと、身内のものだけを招いて知盛邸にて密かに執り行われた出立前の宴でも、実に見事な舞を披露していた。
 軍場で、あるいは日常生活においてならば多少の助けにもなれるが、にとって、政務に忙殺される知盛に対してできることは何もない。せめて、委細抜かりなくと日々の女房勤めにいっそうの細心を払うぐらいで、話を聞くこともできない。各地の情勢に細かく目を光らせ、指示を飛ばしながら院や貴族連中との間を飄々と渡り歩く。もっとも、清盛の実弟や義弟達はいまだ健在のため、そちらの顔を立てることも忘れてはならない。
 がざっと見渡した限りでも目が回りそうなのだから、きっと実際にはもっと大量の仕事をこなしているのだろう。そうと察すればこそ、探し回る声を無視しての局に入り込み、力尽きたといわんばかりの風情で昼寝に没頭する姿は、そっと御簾と几帳の奥に隠すことにしている。本当に切迫した用件の際には、家長や経正といった、知盛の扱いに長けた面子が直々にやってくる。そうでない時には休ませてやってくれと、それぞれの言い方で許可を得たことは、にとって何よりも心強い免罪符だった。


 日数からしてそろそろ重衡達が目的とする墨俣川に着いたかと思われる夜半。相変わらずの忙しさゆえか、このところそう珍しくもなくなった主の帰らない邸でもう終わってしまう桜を眺めていたは、前触れなく襲ってきたすさまじい頭痛に思わず床板へと手をついていた。
 背筋が震え、冷や汗がどっと噴出すのを感じる。何かがおかしいと、頭のどこかで警鐘がけたたましく鳴らされるが、何がおかしいのかはわからない。ただ、結界によって常に清らかな空気が保たれているはずの敷地内にいるのに、異様なほどの空気の重さと生臭さを感じる。
「――ぐっ」
 低く呻き、手繰り寄せるのは身内に眠る焔。乱用していい力でないことは知っているが、今は身を守ることが先決だった。この重苦しい空気の主は、人としての力で対峙できるものではないと直観している。
 暴発への懸念はあったが、だとしても自分の呼び出す蒼焔が邸内の誰をも傷つけることはないとの自負もあった。この焔は、決してを裏切らない。少なくとも、が心の底から大切だと感じている対象に、牙を剥くことはありえないのだ。
 もはや身を起こしていることさえ苦痛に感じ、床に這いつくばった状態では勘のみを頼りに震える腕を持ち上げる。
「我、伏して願う」
 呻き声に紛れ、しかし紡ぐのは祈願文。こうして方向を限定すれば、庭木などをいたずらに傷つけることもあるまい。あの桜は、知盛のお気に入りなのだ。
「我に仇なすモノを、滅したまえ」
 掌から力が放たれる音なき轟音と、何かの叫び声と、そして何かが砕けるような音を同時に耳にした気がした。だが、それらを逐一確かめるよりも先に、気力が尽きて視界が霞むのを知る。
 ぼんやりと靄のかかった向こうに、最後の桜吹雪が見える。完全に散らしてしまったかと、それだけが残る後悔だった。


 突如轟いた轟音に、知盛は目を覚ますと同時に枕元の刀を掴んで隙なく姿勢を整えていた。その死から一月になると、そう寂しげに目を伏せる母を慰めるため、経正や将臣といった気の知れた面々と共に泉殿を訪ね、勧められるままに邸に泊まったばかり。これ以上かの優しき人の心を乱すようなことは御免だと廂に飛び出たというのに、警護の郎党を含め、誰もが唖然とひとつの方向を見やるばかり。
 何ごとか、と。そんな馬鹿らしい問いは、口をつくにも至らなかった。あまりにも強大すぎたため、感覚が麻痺していたのか。びりびりと肌を焼くその感触を、知盛は知っている。凝集されていた陰の気が、高い音を立てて砕けるのを第六感で聞き取る。
「……と、知盛様」
「下がっていろ、俺が行く」
「しかし……」
「お前達の軽々しく行ける場所ではなかろう。それに、この気配には覚えがある」
 ようやく我に返ったらしい郎党に短く告げ、知盛は廂に落ちた衣を拾うと、肩に羽織って足早に目的地を目指す。確かな方向など見てはいなかったが、この嫌な直感が当たるのだとすれば他の場所に向かいようがない。


 砕けたのは、あまりにも清らかな陰の気。そして、渦巻くのは圧倒的な存在感。それは、生きるものには持ちえない気配。禍々しく調和した、とでも称せばいいのか。それは、その自然さがひどく不自然な気配。
「……ッ!」
 歯噛みしたのは己の甘さにであった。そして同時に、相手の執念に敵わないと悟ったからでもあった。止めて思いとどまるようなら、こんなことにはなっていない。それでも、止めるべきだったと悔やむのはその存在の歪みを知っているから。
 理に還すべきと思い、傍にあれることを得がたいと思う。救いようのない矛盾は、しかし想いなどよそに静かに狂気を孕むと知っているのに。
「おお、知盛! やはりお主は敏いのぉ」
 間もなく辿りついた泉殿の塗籠には、床にへたり込むいくつかの人影があった。その正体が己の母と母付きの女房数名と見て取り、知盛は彼女らの視界を覆うように、戸の向こうへと足を踏み出す。
「……父上」
「うむうむ。お主はきっと見抜くと思うておったぞ」
 さすがよな、と。満足そうに呵呵と高笑うのは、どう多めに見積もっても十歳前後の少年。だが、ただの子供と断じるにはその瞳が深すぎる。深く、昏く、無垢という言葉とは対極に位置する、あまりにも多くのものを睥睨してきた双眸。
 呻くように呼んだ知盛の声に、声を上げられたものは気丈な方だった。とさりと床に倒れこむ音を背に、知盛はさていかに場を収めるかと、ちらとも変わらぬ無表情の奥でめまぐるしく案を羅列する。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。