朔夜のうさぎは夢を見る

はじまりのおわり

 ひたと見据えてくる息子の深紫の瞳を興味深げに見返し、まるで幼子を導く親のごとき様相で少年は囁く。
「そういえば、お主、実に面白きひいなを飼っておるの」
 こぼれる笑声は軽やかにして無邪気。新しいおもちゃを見つけた喜びに沸き、けれどそれが自分のものにならないことを正しく把握した、実に大人びた子供の笑い。
「良い器だ。なるほど、決してお主を裏切らぬと、それはまことであったな」
 吾に対して牙を剥きおった。告げて、たまらないとばかりに肩を揺らし、少年は続ける。
「思う様にならぬというのは業腹ではあるが、まあ良い。何せお主の手のものなのだ、一筋縄ではいかぬだろうよ」
「……アレは、我らの手には負えぬ力の器。いかに父上であろうと、手出しをなさると言うならばお引き止め申し上げる」
「一門に害なさぬというなら、捨て置こうよ。アレはお主のモノであろう?」
 低く、わずかに見開いていた両目を剣呑に眇め、ようやく声を絞り出した知盛に少年はあっさりと頷いた。
「見よ、コレを。吾の気配に、喰われるとでも思うたのだろうな。おかげで、八尺瓊勾玉が粉微塵よ」
 ざらざらと音を立てて床に散らばった黄昏色の石の破片に、今度こそ知盛はまじまじと目を見開いて息を呑む。
「神器を、損なわれたのですか……!?」
「欠けたところで力は消えぬ。何も問題なかろうよ」
 不機嫌そうに言い放って軽く腕を振れば、地から風が舞い上がって破片を少年の手の内へと導く。空気の振動に併せて燭台の炎が翻り、そこではじめて、知盛は視界が人工的な明るさに保たれていたことを意識する。


 灯りが揺れれば影が揺らぐ。風が納まれば静寂が戻る。それはごくごく当然のこと。だが、その当然のことにさえ頭が回っていなかったのだと、気づかされる頃にはすべてが手遅れ。
「おおっ、重盛ではないか!!」
 揺らいだ影の数が当初よりもひとつ多いと、気づいた時にははじまり、そして終わっていた。喜々と叫んで己の隣を駆け抜けた少年を、もはやとどめる意思など知盛には微塵も残っていなかった。困惑に揺れる客人の声を振り返ることさえ憚られ、すぐ後ろに座り込んでいた母へと視線を落としながら、ゆっくりとひざまずく。
「知盛殿、これは――」
「まずは、他言無用を。明朝、時忠叔父上方をお呼びし、早急に策を練りましょうゆえ」
 ひざまずき、握っていた太刀を置いてまっすぐに見据えた尼君の瞳は、困惑に揺れてはいたものの、怯えの類は見られなかった。さすがに一門を支える母たる方は度量が違うと、改めての敬愛の念を抱きながらも知盛は小さく首を横に振ることしかできない。何もかも、つまびらかにするには早すぎ、そして遅すぎた。
「お倒れの方々は、私がお運びいたします。お目覚めになった折には、どうぞ、母上からしかと言い含めていただけますよう」
 せいぜい今の知盛にできるのは、事態をいたずらに大きく煽らないよう予防線を張ることぐらいなもの。見渡す視線は、かろうじて意識を保っていた女房の愕然と見開かれた双眸に突き刺さり、自我の回復と反射的な服従を呼び起こす。


 母の立ち上がるのを助け、よろめきながらも自力で腰を上げた女房へとその手を預けた知盛に、しかし時子は凛と返す。
「……ええ、わかりました。そなたは一門が総領。どうぞ堂々とお命じなさい。私は、その命に従いましょう」
 それはなんとも皮肉なことだった。こうして姿を変えてまで還ってきた少年が“誰であるか”をはきと認識しているだろうに、時子は知盛にこそ追従すると明言したのだ。懐深く情愛に満ち、しかし決して欲に、情に眩まない眼識に、知盛は己が母もまた、形は違えど数多の修羅場をかいくぐってきた歴戦の智慧者なのだと強く思い知る。そして、だからこそ、その言葉が図らずも示した皮肉を思う。
「総領、ね……」
 与えられた称号に、ぽつりと呟いて知盛は訝しげな視線を送る母へと向き直った。
「私は、ただ一門のためにある郎党の身に……過ぎませぬ、よ」
「知盛殿?」
 そうでしょう、ほら。感慨を一切含まない声で言って息を吸い、腹を括って知盛は振り返る。
「重盛兄上が、お還りになられたのですから」
 その視線の先には、じゃれる少年と困惑する青年の姿。
 深い諦観に縁取られた鋭い横顔は、仄かな憫笑と冷笑をわずかずつ刷き、けれどどこまでも慈愛に満ちてありうべからざる邂逅を静かに見守っていた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。