はじまりのおわり
知盛が政務に復帰して間もなく、それまで長く病臥していた高倉上皇逝去の報が京を駆け巡った。それを追うようにして、やはり南都から戻って以後、ずっと床に伏していた宗盛が亡くなり、六波羅を覆う空気はいよいよ暗さと重さを増していく。
前後不覚の状態で南都から戻され、丸三日間を眠って過ごしたは、しかし、目を覚ませば常とまったく変わらない動きをみせていた。周囲からはあれこれと心配の声が届いたが、にしてみれば空っぽだったものが回復したから目を覚ました、という程度の感覚である。目を覚まし、自室にて寝かされていることを理解できずに呆然としていたに「暢気なことだ」と呆れてみせたのは知盛だったが、その呆れに微塵も反論できないことを知ったのは、それから半刻もしない頃に始まった、安芸の説教ゆえだった。
当人がだんまりを決め込んでいるため、面と向かって礼を言ってはいないが、眠っている間のに、ほぼつききりの状態で世話をしてくれたのは知盛であるらしい。その言葉を証明するかのごとく、前後するように倒れられたの心痛は筆舌に尽くしがたい。
では何をどうすべきかと考え、とにかくもう前後不覚な事態に陥ることだけは避けようと、そう決めたのがつい先日のこと。だというのに、こうして再び床づいている自分の有り様に、はあまりにも情けなくて泣けてきそうだった。
「お前は、よほど褥が気に入ったのだな」
「……面目次第もございません」
「あるいは、安芸の説教か?」
「………決して、怒らせようと思っての行動ではないのですが」
「大夫も少納言も、皆こぞって俺の狼藉の結果だろうと詰る」
「いえ、それは」
日頃の行いというものではなかろうかと、は枕元でのんびりと酒を呷る主を見上げて言葉を濁した。
名を挙げられた女房は、いずれも知盛邸きっての情報通である。主の恋愛遍歴の華々しさを正しく知っていればこその発言なのだろうが、そんな情報通にそうみなされているとなると、周囲への触れ込みはいわんやといったところ。そもそも、こうして時間を問わず状態を問わず、足繁く通ってくれるのが原因なのだが、それこそは最初の契約のため、には否定の言葉を返す余地がない。
「なんだ? 狼藉を働いて欲しいのか?」
「…………夜遊びでしたら、どうぞ香の移らぬうちにいずこの花の許へも」
「つれない、な」
お前の香を俺に、俺の香をお前に、そう言ってはくれんのか。
ふと身をかがめ、酒気混じりに囁かれる声は熱く艶めいている。ただでさえ微熱で火照っている頬が余計な熱を持ったことを自覚し、は精一杯の抗議の意を篭めて目笑している知盛をねめつける。
身を起こすのは辛かろうが、話し相手ぐらいは務まろう。そう言って座り込んだ知盛の真意は読めなかったが、本題がこの軽口の応酬の向こうに待っていることはわかっていた。燭台の炎が揺れ、几帳に映る影が躍る。
「父上が、身罷られた」
しばしの沈黙の後、ぽつりと落とされたのはとんでもなく重い言葉だった。目を見開き、脳裏で言葉を反芻し、そして身を起こしかけたを知盛は片手で軽々と制す。
「しばらく調子を崩しておいでのご様子ではあったが、あれは病などではあるまい。……呪詛であろう、な」
風が吹き、燭台の炎はかそけき断末魔を残して消え去った。それには微塵の関心も払わず淡々と紡ぎ、知盛は杯を重ねる。
「焼け、爛れ……母上には、実に気の毒なことをした」
先にうかがっていれば、その目を隠しても差し上げられたが。言って杯を置き、代わりに指を伸ばして知盛はの頬に触れる。熱いな、と。相槌を求めていない独り言が、ごろごろと音を立てて夜闇に消える。
「皆が泣く。だが、俺は泣けぬ。泣かぬのだろうと、気遣う輩もいるがな。違う……俺は、泣けぬのだ」
代わりの涙を探すように、酒精に火照った指先が、の目尻をゆらゆらと辿る。
「重盛兄上の時も、そうだった。悲しいと、そうは思っているのだろう。それはわかる。だが、泣けぬ。非情な息子と、さぞやお嘆きだろうが」
泣き方がわからんのだ。
あまりにも常と変わらない独白の声こそが、には辛かった。直接顔をあわせたことは一度しかない。だが、そのたった一度だけでも、知盛が清盛に一目置き、敬愛の情を抱いていることは明らかだった。素敵な親子だと思い、それを羨ましく思ったのだ。だからこそ、悲しんでいないなどとは思わない。ただ、その感情さえ客観的に推察してしまう知盛の在り方を、切ないと思う。
指摘を受けるまでもなく、起き上がるのは辛かったため、はそっと目許に添えられていた指を掴んで緩く引いた。同時にごそごそと身をずらし、褥に空間を作ってやる。風邪の類で臥せっているのならともかく、先の説明から不調の原因はなんとなく察せた。恐らく、呪詛の余波を受けて体が調子を崩したのだろう。こういう時、変に気に敏い器とは不便なものだと思う。だが、いや、だからこそ。こうして主を褥に引っ張り込むなどという、非常識な真似を思いつくわけなのだが。
引かれるままに身を倒し、中途半端に横たわった知盛には「褥に入ってください」と注文をつける。
「香の移らぬように、と。そう言ったのは、どの口だったか」
「事情が変わりましたので」
混ぜ返す声の軽やかさも、今はただ胸を噛む切なさにしかならなかった。微熱に潤み、夜闇に満たされた視界でも、これだけ近づけばわかる。白く、色素のほとんど感じられない肌に、くっきりと隈が浮いている。どうせここ何日かはろくに寝ていなかったのだろうと、抵抗されないのをいいことに、は常の枕として抱き込まれるあたりに潜り込んでみる。
「俺を襲う気か?」
「滅相もございません」
反射的にか、意図的にか。常と同じくゆるりと抱きこむ腕はやわらかく、からかう言葉に色欲は微塵も滲んでいなかった。
似たようなことがあったと、思い返す夜がある。そしてその夜は、泣けなかったと語った彼の気配が、心もとなく揺れた夜。二番煎じでは効果は薄いかもしれないが、だが、ならば同じように繰り返してみようとは思う。無意識であれ、意識してであれ、こうしてわざわざ自分の許をおとなってくれた意味は、どこかしらにあるのだろうと信じているから。
「子守唄を、歌いましょうか」
「……眠りを、安らげるのだったか」
そっと紡いだ提案には、小さく微笑む声が落とされた。そのまま腕に力が篭められ、鼻梁が頭頂部に埋められる感触がある。
「頼むとしよう」
小さく小さく、言って瞼が落とされる気配を感じ、はゆるりと声を紡ぐ。いつかの夜と同じように、感じる吐息が寝息に変わるまで、ひたすらに、誰もに安らかな眠りをとの願いを篭めて。
Fin.