はじまりのおわり
炎が完全に消えるまでに要された時間は、実質的には一刻ほどだったらしい。静かに揺らいでいた蒼焔がゆるゆると収束し、の手の内に戻った後には多少の焦げ目のついた山門やら建物が残されているだけだった。大きく息をつき、肩を落とすと同時に瞼も落としたはその場にずるりと崩れ落ちたが、地に伏す前に知盛によって抱きとめられていた。
「立てるか?」
「……難しい、です」
覗き込むようにして見やってくる深紫の双眸を、何とか薄目を開いて見やったものの、は掠れた声でそう紡ぐのが限界だった。指先にさえ、ろくに力が入らない。それまでは無我夢中でまるで自覚がなかったのだが、体中が空っぽになったような、そんな錯覚にさえ陥る。加減を誤った、というのが正直な感想である。
「では、そのまま眠っていろ。あとは俺の領分だ」
楽しげに囁き、ずれていた小袿を顔面にかけて抱き上げられた、というのが最後の記憶である。あてがわれた掌から流れ込む静かな気配にほっと息をつき、は言われたとおり、素直にその意識を睡魔へと明け渡したのだった。
ひょい、と。いかにもぞんざいに小柄な人影を抱き上げた自軍の大将が踵を返すのを見やって、背後に控えていた兵達は慌てて地に膝をついた。視線は伏せているものの、向けられる意識の方向性は明確。畏敬の念に満ち満ちた気配に曝され、知盛は唇を吊り上げて小さく嗤う。
皮肉なもの。いかに言葉を並べて身を飾り立てようとも、それに迎合しようとも、こうして己が目に奇跡を焼き付けられればその傾倒ぶりが格段に増すばかり。少なくとも、自軍の兵においての存在に不審を抱くものはもう存在しないだろうと知盛は確信を抱く。
武勲を立てようとも所詮は女の身よ、とそしるものはなくせない。それは致し方のないこととわかってもいる。だが、こうして人外の力を見せ付けてしまえば話は別だ。これでもはや、の立場は揺るがない。なんぴとたりとも侵そうとはしないだろう。なにせ、仏敵とならんとした窮地を救った、巫女姫様なのだから。
「明けまではまだ間があるが、僧兵どもも浮き足立っていよう。家長らが戻り次第、一気に片をつける!」
朗々と声を張り、一斉に返された声に知盛はふと声音をやわらげる。
「抜かるなよ……月天将に齎された慈悲、敗戦にて穢すことは、まかりならんぞ?」
言い置いて幕の張られていた方へと足を向ければ、一拍の沈黙の後、背後から割れんばかりの雄叫びが響く。聞こえるのはただ、自分と、そして今はひたすらに安眠を貪る娘を讃える声。少しばかり煽りすぎたか、との反省は、しかしすぐさま消えてなくなる。この調子ならば、最後まで知盛自身が前線に立つ必要はないだろう。
「帰る前に、言い訳を繕わんと、な」
刀を振るうのも悪くはないが、今は約束を果たすことが先決である。存外面倒そうだとこぼした溜め息に微かな安堵が混じっていたことは認めても、その原因はとりあえず取り置こうと決めて、知盛は陣幕の奥に手の内の体をそっと横たえてやった。
平家軍の兵にとって奇跡と映った蒼焔は、町民や僧兵の目にも同じ意味を持って捉えられていたらしい。半ば戦意を喪失した荒法師崩れの僧達は、士気を嫌というほど高められた平家の兵の敵ではない。朝日が完全に昇る頃には、勝敗は決して知盛の前に首謀者と思しき僧達が並べ立てられるに至った。
沙汰は父上に問おうよ、と。言って馬上の人となった知盛は、往路にはなかった牛車を先導する形で帰京の途につき、沿道にて待ち受ける人々の関心を大いにくすぐった上で、しかし不調を理由に、清盛の許に戦勝報告に赴いたきり、邸に篭もったきりである。
「――というわけで、私としてはてっきり、胡蝶殿が心配でたまらず、ずっとお傍についておいでなのだとばかり思っていたのですが」
まことにご不調だったとは。塗籠の奥で臥せっていた知盛の枕辺に端座し、そうのたまう淡紫の双眸は楽しげに煌めいている。
「宗盛兄上が臥せっておられるお陰で、新年の行事は堂々と辞去できる。問題はなかろう?」
「まずはその物言いが大いに問題なのだと、ご自覚くださいませ」
大袈裟に溜め息をつき、しかしちっとも諌める気がないと知れる声で重衡は続ける。
「問題はありますよ。月天将の正体を問う声が強まっています。胡蝶殿のご不在の件も、大分漏れている様子。傍仕えとしてお連れしているなど、もはやその言い訳も通用しますまい。早々に、何らかの形で折り合いをつけられませんと」
「不味いことになる、と?」
からかう声で切り返した知盛に、重衡はことさら声を潜める。
「敦盛殿の一件以来、父上がその手の話に異様な執着をお見せでいらっしゃること、ご存知でしょう?」
「……父上は、重盛兄上が恋しいのさ」
懸念を存分に孕んだ声に、知盛はただ静かな憐憫の声を返してそっと瞑目する。
清盛がなにやら怪しげな呪術に手を染めていると聞き、知盛はそれとなく、あるいは面と向かって幾度か言葉を返していた。それは違う、それは誤っていると。だが、ではお前は家族が愛しくないのかと問い返されれば言葉に詰まるし、何より、清盛の目を見た時、知盛は心のどこかで諦めを悟った自分を感じていた。止めることができる段階など、もうとっくに過ぎ去っているのだと。
何をきっかけに父がそれを知ったのかはわからなかったが、何を目的に知りたがったのかは察するまでもなかった。病弱だった従弟が還ったのを見てからこちら、ことあるごとに繰り返されるその呪法は、ただ一人の喪われた人のために捧げられている。
「有川を拾って、それで割り切ってくださったかと思ったが」
「いまだ諦めきれておいでではないのでしょう。そこに、胡蝶殿がかくな技を繰る術師と知れれば、差し出すようお命じになられるのも時間の問題です」
「さすらば、俺は父上を見限るだろうよ」
「兄上!?」
あっさりと言い返し、知盛は声を失って目を見開いている弟をちらと見やる。
「いや、世界を、か? ……案じずとも、重衡。アレを加護する神は、いと尊き御方だ。人智の及ばぬ力から己が神子を守護することぐらい、たやすくやってくださろう」
「しかし……」
「策も講じてあるし、何より、父上とて軍における象徴の重要さは、よくよくご存知であられよう。ここまで名を売ったのだ。そうやすやすと、アレを損なう真似はなさるまい」
言ってうっそりと嗤い、知盛は呆れとも納得ともつかぬ表情を浮かべる弟に、宥める声をかけてやる。
「俺のことより、お前は上皇様についていろよ……。もう、長くはあられまい?」
「医師の見立てでは、もう危ういと」
図らずも同時に溜め息をこぼし、そしてひとつ頭を振って重衡は姿勢を正す。
「詮無いことにて長々とお邪魔いたしました。ご存分に、お休みくださいますよう」
「お前も、ほどほどにな」
混ぜ返す兄の気遣いを正しく受け取り、やんわりと笑い返して重衡は腰を上げる。そのまま足音もなく退室し、静かに戸を閉めたところで深々と息を吐くのだった。
Fin.