朔夜のうさぎは夢を見る

はじまりのおわり

「そういえば、有川殿も火に気をつけろ、とわざわざ忠告にいらっしゃっていましたけれど、もしや、この強風をご存知だったのでしょうか」
 食事を終えて幕の外に控えていた雑兵に椀を託したところで、はふと思い出して主を振り返った。挙兵の準備に慌しい中、妙に深刻な面持ちで訪ねてきた青年は、奔放な笑顔しか見たことがなかったからこそ余計に記憶に鮮やかである。ちょうど知盛に確認したい事項があってすぐ脇の廂に控えていたは、苦味と困惑と、そして恐れに縁取られた声に不審を覚えたものである。
「さて。冬は空気も乾き、草木も枯れて火が回りやすい。気をつけるに越したことはなかろうと、そのように言っていたが……」
 何か、思うところがあったのやも知れんな。そう、なにげなく返す知盛は自嘲と憐憫のはざかいにあるような笑みを口元に刻んで、しかしの欲しい答は紡がない。何かを知っていて、そして明かす気がないのだろう。ならば問い詰めるだけ無駄なことだと理解する一方、もどかしさは殺せない。
「お前は、知らなかったのか?」
「風が強いということをですか? あいにく、予見の能力は持ち合わせておりません」
 逆に不思議そうに問いかけられ、は困惑しながらも否定を返す。神の加護を持つ、ということは、決して全知全能になるということではない。中途半端に力を与えられればこそ、人としての力の僅少さに、歯噛みをしたくなるばかりだというのに。
「……そう、か」
 どこか納得し切れていない風情を残してはいたが、知盛はひとまずそう頷いて問答を打ち切った。何が主の琴線に引っかかったのかと考えてみるものの、には皆目見当もつかない。そのままどこか遠くを見やる風情で考え事に没頭しだした知盛は、下手に邪魔をすればいたく機嫌を損ねるばかり。先の話の続きであることだし、どうせ問うたところで答はもらえないのだろうと、は諦めて外されて放っておかれていた籠手の手入れへと意識を傾ける。


 それからさほど時間を置かず、ふと周囲に起こった落ち着きのない気配に、は首を巡らせた。見れば知盛も同じように不審そうに気配を探る様子をみせており、ざわめきはどんどん規模を増していく。
「様子見に――」
「知盛様ッ!!」
 外に出てこよう、と。がそう続けようとした言葉を遮り、幕内に飛び込んできたのは家長だった。
「申し訳ございません! 火の不始末があったらしく、山門に燃え移り、勢いを増しているとのこと……ッ!!」
 らしくなく慌てふためいた様子で告げられたのは、知盛が懸念し、散々に注意を喚起していた最悪の事態だった。耳にするなり血の気が引いたのはも同じだったが、頭を地にこすり付ける家長はがたがたと震えている。
「火消しに手を割いてはおりますが、間に合いませぬ! どうぞ、ご避難を!!」
「……いらぬ。それより、火消しが間に合わんのなら、町民の避難を優先させろ」
 しかし、知盛の口から放たれたのは、至極冷静な指示だった。
「この風向きでは、町に火が移るのは時間の問題だろう……悪僧どもならともかく、町民を焼き殺したともなれば、比叡や高野山の連中にいい口実を与えることになる」
 言いながら腰を上げ、太刀を佩いて知盛は嗤う。
「御仏が我らを仏敵となさんというなら、あえて歯向かうだけのこと。お前は避難の指示に回れ。火消しは俺が指揮を執る」
「御意」
 傅く家長を通り過ぎ、返答も待たずに知盛は陣幕を跳ね上げる。その刹那に見えた赤い地平に息を呑み、は仮面も被らず太刀を握って慌てて知盛の背を追いかけた。


 とにかく火を消そうと、下草を刈って延焼範囲を喰い止め、雪やら土やらをかけている郎党達の合間を縫い、知盛は燃え盛る山門の前に立ち尽くす。めぐらされる塀をことごとく舐めつくし、ちろちろと天に向かって腕を伸ばす炎は、既に手に負える勢いではなかった。轟々と燃え盛る音の向こうに、逃げ惑う人々の悲鳴と足音がひしめいている。
「御大将ッ!!」
「門の内の、近い建物は取り壊せ。最悪、伽藍を守れれば仏敵とのそしりは免れよう……急げ!」
「はっ!!」
 指示を求めてやってきた郎党に見向きもせず告げ、しかし知盛は冷ややかな視線で今にも炎に呑まれんとする南都を見やっていた。たとえ獣や鳥の肉を食そうと、僧兵を殺そうと、兵達はそれでも仏敵としての汚名を恐れている。まして、目の前に広がるのは護国寺として古くより信仰を集める興福寺に東大寺。かつて園城寺を攻めた時とは、まるで意味が違うのだ。
 背後で慌しく行き交う足音の合間を縫って、近づいてきた気配は知盛の半歩後ろで小さく息を呑んだようだった。さもあらん。あるいは壮観とも言えるだろう炎の乱舞は、見渡す限りの地平を埋め尽くし、夜空を赤く照らし出している。
「……間に合うと、思うか?」
「………いいえ」
 問いには、躊躇いながらも実に冷静な答えが返された。それでいいと嗤いながら、知盛は嘯く。
「天は平家を見限られたようだな。仏敵との汚名を背負えば、もはや我らに付き従うものも、ろくに残りはしないだろうよ」
 声は低く、そして静かな確信に満ちていた。信仰心などろくに持ち合わせないから見ても、目の前の情景は地獄絵図としか思えない。そこかしこから聞こえる悲鳴が炎に取り込まれ、なおと腕を伸ばし、広く人々の信心を集める象徴へと迫っていく。


 逡巡は正しく一瞬。そしては顔を隠すために小袿を押さえていた手を、ゆっくりと体側に下ろし、ひしと握り締めた。
「火を消すに、否やはないということですね?」
「何?」
 ぽつりと落としたのは確認の問いかけ。訝しげに振り返った深紫の双眸は、炎の照り返しを受けて不可思議な色に揺れている。だが、にとって重要なのは、否定を返されなかったという事実のみ。
「雨を呼べれば言い訳にも困らないのでしょうが、あいにく、それには力が足りません。申し訳ありませんが、適当な言い訳をお願いできますか?」
「……何をなすかによろうよ、巫殿」
「では、ご覧になった上でご協力ください」
 にっと、小さく笑って前へと向き直った知盛を追い越し、は足を進める。そして、視界一杯に広がる炎を抱くように両手を広げ、身の内に眠る焔へと静かに呼びかけた。


 それは、奇跡としか思えない光景だった。ゆるりと伸ばされた細腕の中に呼び起こされた蒼焔が、ただ静かに、燃え続ける赤い炎を呑み込んでいく。近づいても熱を感じさせない蒼焔が一面に広がり、揺らめく下では手に負えなかったはずの炎が姿を消しているのだ。
 作業の意味を失い、唖然と見やる兵達の視線を一身に浴びながら、しかしくらりとの体がわずかに揺らいだ。気づいた知盛が手を伸ばして支えてやれば、衣越しにも明らかな冷や汗と下がりきった体温が伝わってくる。
「……過ごすなよ」
 倒れられては面倒が増える。何より、そうまでしてこの炎を喰い止めるだけの意思が知盛にはなかった。伽藍を焼いたからとて、何だというのだ。軍場で手にかける数多の命と、ここで焼き払う物言わぬ寺社仏閣と。いったいどちらが重いか、などと詮議するのは、知盛にとっては実に無駄なことだった。風向きからして、味方への被害は皆無。巻き込まれた町民達を憐れと思う心はあるが、避難のために向かわせた家長はきちんと役目をこなしているだろうし、戦禍がそこかしこで渦巻く時勢など、そんなものだという諦念もある。
 言って、しかしふと気づいたのは偶然か、あるいは必然だったのか。背にあてがった掌に、あたたかな何かの“流れ”を感じる。それは、知盛の体からの体へと流れ込む、力の波動。己が力を操ることに専念しているため知盛の忠言さえ聞こえていなかった様子のの横顔は、支えてやったその瞬間に比べて、いくばくか血の気が戻っているようにもみえる。
 わずかに瞳を細めて思案をめぐらせ、行き当たったのはなんとも単純な五行相生の理。操られる蒼焔は水気にて克され、その水気は金気にて生じる。強大な力を克しながら操っているのだ。ともすれば枯渇しかねない水気を補充するため、手近な金気を欲するのはさほど不思議なことでもない。
「なるほど」
 小さくごちて、知盛は深く、己の内を廻る気の流れを意識する。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。