朔夜のうさぎは夢を見る

はじまりのおわり

 知盛ほど広く視野を持って世を見渡しているわけではないとわかっているから、それは世迷言と、絵空事と笑われるかもしれない。それでも、感じた真摯さを自嘲の海に沈めることは見過ごせなかった。
「誰しも、己のやり方で、己の手の届く限りのことしかなせないものです。ただ、それをなせる人と、なせない人とがいるだけで」
 深い覚悟が必要とされればされるほど、なせることから目を背け、己に妥協する人間は多くなる。それが世の常。はその妥協を責める気にはならないし、自分もまた多くの場合、そうして逃げながら生きてきたのだと自覚している。そして、逃げるわけにはいかない覚悟に出逢うことがあるのだということも、また。
「何が正しく何が誤っているかなど、価値判断をくだすのは後世の人間の仕事です。わたし達は皆、直面するあらゆることに対して、ただ精一杯に生きるのみ」
「……それを、過ちと知っていたなら何とする」
「貫きます」
 ふと投げかけられた問いに、は迷いなく答えていた。
「たとえ過ちだとて、最期まで貫けばそれはわたしの真理となるでしょう。正すべきと思ったなら、正すかもしれません。ですが、知っていて犯すなら、貫くことだけがわたしに許されることだと思いますから」
 言い切った言葉に返される音はなかったが、腰に回されていた腕に力が篭められたのは感じていた。ゆるゆると戻ってくる常の覇気を感じ取り、自分の言葉が相手に響いたことには素直に安堵する。
「知盛殿は、一門の皆様が大切だから、守りたいと思われるのでしょう? ならば、それは尊いことです。たとえそれが世界に糾弾される罪を招くのだとしても、その思いだけは、尊い真理です」
「では、その罪に向かう道を選ぶと俺が言ったなら、お前はどうする」
「ご一緒します」
 いっそ晴れやかに答えて、は月の見えない空へと声を放った。
「違う道が見えたなら、そう申し上げるかもしれません。ですが、いずれにせよ道を貫くという意味では先と同じこと。同じ道を、最後まで貫きましょう」
「許さぬと、そう言ったなら?」
「こっそりついて参ります」
 試すような物言いにけろりと返せば、一瞬の沈黙の後、やわらかな苦笑が零される。
「随分と、強気を得て戻られたものだな、鞘殿?」
「期待には、余すことなくお応えしたいと思いましたゆえ」
 取り澄ました答えにくつくつと笑い、知盛はしばらく、を温石代わりにして静かな夜闇をただ堪能しているようだった。


 女房としての日常業務に立ち返ったのも束の間、あっという間に挙兵の準備に追われ、年の瀬の忙しい時期に人手を欠くことを散々に詫びながら、は馬上の人となった。向かうは南都、興福寺。七千の僧兵が待ち受けると聞く戦場である。逆茂木も物々しく、敵方の士気は推して知るべし。地味な作業に苛立ちながら道を拓き、しかし、いざ戦闘となれば知盛の率いる兵達の戦力は圧倒的だった。
 数で圧した、というのもあろうが、何より経験の豊富さが物を言ったのだろう。知盛や、家長といった主だった将が前線に出る必要もなく、陣の奥にて伝令の兵と言葉を交わすだけで、戦況はあっという間に平家有利の方向へと傾いていく。
「これならば、年内に片をつけられましょう」
「……年をまたげば、何かと面倒ゆえな。少しでもてこずるようなら、俺達が出ればいい」
 日が傾けば戦闘終了というのが暗黙の了解である。法螺貝を合図に兵を退かせ、被害状況を聞き終えた知盛は、家長の言葉に短く応じる。
「とはいえ、先の戦での鬱憤が溜まっているのは皆同じであろう。暫しは静観しているゆえ、せいぜい痺れを切らさぬうちに片付けろ、と伝えおけ」
「承知いたしました」
 いっそのんびりした風情で嘯くものの、その言葉には一片の偽りも含まれてはいない。事実として、戦況が少しでも膠着をみせれば知盛は打って出るだろうし、そうなれば兵達は己の敵を倒すのみならず、大将の身を護るという二つのことを考えながら軍場を駆けねばならなくなる。それでは憂さ晴らしにならないだろうと、物騒に微笑む知盛なりの気遣いは、どうにもわかりにくくてならない。
 もっとも、そのわかりにくさを正しく理解してこその乳兄弟であろう。どこか苦笑混じりに頷いた家長は、ちらと流された視線に続けて下された「下がっていて構わない」との指示に頭を下げ、陣幕の外に出ていってしまった。


 布をめぐらせているとはいえ、冬の屋外は冷える。折からの強風もあり、バタバタとうるさい幕を見ながらぶるりと身を震わせたは、頭上から無造作にかけられた布地に慌てて振り返る。
「寒いならば被っていろ。火を求めてもいいが、この風だ……極力避ける方が、無難であろうな」
 今の風上には敵陣があるが、風向きは昼から定まらない。火攻めをかける側ならともかく、かけられてはひとたまりもないし、まして自陣での失火など、笑えない冗談である。常套手段であり有効な手段をとれないのは、敵方とて同じこと。腕の防具を外しながらの独り言めいた説明に頷き、は礼を紡いで素直に渡された小袿を被りなおす。
 折よくかかった声に幕から顔を出せば、どこぞの郎党の小姓だろう少年が、椀を二つ持ってを見上げてきた。
「御大将と月天将殿にお持ちするように、と」
 どうやら炊き出しをしていたらしい。まだほかほかと湯気の燻る汁物はいかにも温かそうで、思わず頬をほころばせながらは素直に椀を受け取る。
「汁椀、か?」
 寒空の下、温かな食べ物は何よりも体を労わってくれるだろう。かしこまる少年に礼を告げて戻そうとしたところで、よりも先に背中からかかる声がある。
「御大将!」
 半ば叫ぶように呼び、慌てて地に頭をつける少年に知盛はくつくつと笑う。
「火の始末には、存分に気をつけるよう、よく伝えおけ」
「はいっ!」
「ご苦労だった……戻っていいぞ」
「はっ、御前失礼いたしますっ!!」
 礼を言いそびれて呆然と小さな背中を見送るしかないに「どうした」と飄々と問いかけ、知盛はそそくさと幕の奥に引っ込んでいる。どんな気紛れかはわからないが、少なくとも、かの少年にとって総大将である知盛は、よほどのことがない限り直接言葉を交わせるような相手ではない。きっと、この偶然に得た感動を必死に周囲に語るのだろうと、既に夜闇にまぎれてしまった背中をもう一度見送ってから、は踵を返す。


 気紛れには気紛れなのだが、こうして労いや気遣いの声をかけるなど、知盛はその気紛れに紛れさせて部下の心を掌握する術に長けている。ある程度は意図しての行動なのだろうが、そればかりを考えていて口をつく言葉だけではない。特に、子供は良くも悪くも敏感だ。何の気なしに紡がれた「ご苦労」の一言さえ、それが純粋に労いの色を持っているからこその感動を生むのだろうし、ますます知盛に傾倒する郎党達の心を惹きつけるのだ。
 カリスマ、という言葉の意味をまざまざと見せ付けられている気がして、は感嘆の息を禁じえない。
「なんだ? よもや、今さら肉が食えない、などと言い出すのではなかろうな?」
「いいえ、違います」
 ありがたいことに、椀には簡素ながらも木彫りの匙が添えられていた。右手に持った方が若干量が多いと判じ、それを渡してからは腰を下ろして仮面に手をかける。どこでいつの間に仕留めたのか、漂う香りには、獣肉を使っていると知れる特有の深みがあった。
 仏教が深く浸透している、という文化的背景ゆえか、日頃の食膳ではせいぜい魚肉が供される程度であるが、軍場ともなればその縛りも緩くなる。安芸をはじめ、ごくごく普通の女房達にこの汁物を渡せば卒倒されそうだが、はその限りではない。灰汁抜きのろくにされていない汁は決して美味とはいえないものの、久しぶりの肉食に、むしろ懐かしさを覚えるというものだ。
 主と面と向かって食事をとる、というのもやはり卒倒物の非常識なのだろうが、ここは非常識がまかり通る戦場であり、何より知盛との間には常から非常識が平然と存在している。万一を考えて小袿を頭から被りなおし、は小さく手を合わせてからありがたく温かな汁へと口をつけた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。