朔夜のうさぎは夢を見る

はじまりのおわり

 賭けの結果は上々。あとは、定めた道を貫くにあたり、主の傍に在り続けられるよう努めればいい。そんなことをつらつらと考えていたものだから、言葉を紡ぐためにあえて立ち止まり、振り向いてを見やっていた知盛の目許がやわらかく笑みに和んだことに、気づくのが遅れた。
「おかえり」
「え……?」
 紡ぎ、そのまま弧を描いた口元もまた、やわらかな笑みを刷いている。思いがけない言葉にぽかんと見上げるに、知盛は楽しげに喉を鳴らすばかり。
「お前の世界では、帰り着いた者を、そう言って出迎えるのだそうだな」
 有川に聞いた。そう繋げてから知盛は相変わらずの主従関係を無視した要求を突きつける。
「堅苦しい挨拶はもう貰ったが……お前は、この言に何と返す?」
「……有川殿に、お聞きにならなかったのですか」
「聞いたさ。だが、お前の答えを聞きたい」
 くつくつと笑い、知盛は覚えたてだろう言葉をもう一度繰り返す。
「おかえり」
「………ただいま」
 さっと周囲に目を走らせ、声を聞くものがないことを確認しながらも声を潜め、は妙な緊張に身を固めながら主の要求を呑んだ。変に声が震えてしまった原因は、考えたくもない。砕けた物言いをすることへの緊張か、あるいは『帰って』きたことを強く実感できる懐かしい言葉への感慨か。いずれにせよ、内心で密かに賭けていた事項に、期待の遥か上空を行く結末を与えられたことに違いはない。予想外の展開に、の思考回路は破綻寸前である。
 だというのに、要求の叶えられた知盛の愉悦は止まらない。ますます笑みを深め、伸ばした掌でそっとの頬を捉え、所在無くさまよう視線を自分に向けさせてから、ことさらゆっくりと顔を寄せた耳元でさらに繰り返す。
「――おかえり、
 滅多に呼ばない名を呼んでやれば、びくりと体が震え、耳朶はみるみるうちに真っ赤に染まる。正直かつ過敏な反応に、堪えきれない笑いを零すところにちょうどやってきた安芸を振り返り、恐らくまずは装いゆえに設けられるだろう説教の時間を正しく予感して。とりあえず満足を得た知盛は「勤めは明日からで構わん」と言いおいて、さっさと踵を返して手隙の女房を探しに廂を渡っていった。


 予想は微塵も裏切られず、男装の、しかも女の一人旅とは何ごとかと散々に説教を受け、けれど最後には「ようご無事で戻られました」と包み込むような笑みを向けられ、は帰邸後の第一関門を突破した。さほどの分量もない荷を解き、埃にまみれた体ゆえに東寺まで足を延ばして湯を浴びて、留守中心配をかけた邸の女房達の許に挨拶回りに出向いていれば、冬空はあっという間に星を戴く。
 渡り慣れた濡れ縁を歩み、帰り着いた自室にて見つけたのは、衣を被り、火鉢を抱えて夜空を仰ぐ主の姿。
「お風邪を召しますよ」
「なれば、厚く看護をしていただくまでのこと」
 溜め息交じりの諫言には、笑い混じりの戯れが返された。覚えのある会話だと思いつつ、あいにくの手持ちの衣装に、男性用のそれはない。衣桁から外した袿を背に追加すれば、くつくつと笑ってひょいと手を引かれる。崩れた姿勢を何とか保とうと足掻くよりも先に、いつの間にやら除けられていた火鉢の代わりに、知盛の腕に抱き込まれていた。
「冷たい」
 ゆったりと袖で包み込み、肩に顎を乗せておもむろに呟かれたのは不満。つい先ほどまで火鉢を抱き込んでいた知盛と、濡れ縁を歩いていたとでは表面温度の違いは明白。当然のことをさも不愉快だとばかりに訴えられ、は溜め息を殺しきれない。
「火鉢の方が温かいのは当然です。ご不快なら、お放しください」
「だが、すぐに温まろう?」
 温石代わりにはなろうさ。言って再びしっかりと抱き直し、そして知盛は黙り込んでしまった。首筋をゆったりとくすぐる息は緩やかで、ひどくくつろいでいるのが伝わってくる。温石代わりと言われたのはだったが、今の状態では立場が逆である。冷え切っていた四肢にゆっくりと浸透してくる体温が心地良く、知らず瞼を伏せてほうと息をつく。


 どれほどの間そうして静寂に身を浸していたか。ふっと揺らいだ背後の気配に、はつられて視線を上げる。
「近く、南都へ発つ」
 短い、それは宣告だった。ぴくりと跳ねた肩に小さく笑う声があり、そして知盛は淡々と続ける。
「此度の一件、父上はいたくお怒りでな。……先般の汚名返上も含め、徹底的に叩きのめして来い、と、そう申し付けられた」
「……汚名?」
 声音は常と同じく平淡だったが、聞き捨てならない単語を拾っては思わず復唱していた。ぴりりと孕まれた不審と不機嫌の色を嗅ぎ取ったのだろう。喉の奥で嗤いながら、知盛は「そう、汚名さ」と歌うように紡ぎあげる。
「仇敵たる源氏勢を前に、いざ追い詰めておきながら、おめおめと京に帰されるなぞ、いかな腑抜けか。時忠叔父上になぞ、面と向かって罵られたぜ?」
 時子の実弟にして清盛の義弟たる時忠は、一門の中でも権勢欲が特に強いことで知られる人物である。は直接対面したことはないものの、女房達の噂からその人品を察する限り、きっとそりの合わない相手だろうと感じている。そして、貴族としての平家の側面を一身に表す時忠と、武門としての平家の側面を強く表す知盛との、表立っての不和とは言わないものの折の悪さは、一門の中では有名な話なのである。
 自らの主を悪し様に言われて、面白く感じるはずもない。己の身のままならなさに誰よりも苛立っているのは知盛であり、時には不調をおしてでもなすべきと判じたことをなしていることをは知っている。それを周囲に知られることをよしとしない主であればこそ、知る者はごくごく限られているのだが、だからといって聞き流すわけにはいかなかった。
「軍場の何たるかもご存じない方の戯言なぞ、お捨て置かれませ」
「だが、その評こそが、最も広く出回る俺への評なのさ」
 言い切った声の意外な冷淡さに自分で驚くなど、どこ吹く風。一層自嘲の色が濃くなった声が、冷ややかに追従する。


「あの傷では、宗盛兄上は助からんだろう。一命をとりとめたとて、参内さえままならぬ身となられようよ」
 それは、軍場にていくつもの傷を負い、いくつもの傷を見てきたからこその慧眼だった。何が致命傷となり、どこまでが許容の範囲なのかは、薬師は医師でなくとも知ることができる。それが経験というものだと、は知った。そして、その経験を基に知盛が無理だと判じたのなら、その見解に間違いはないのだとも知っている。
「雲上の方々は、軍場なぞ知らん。時忠叔父上の感じられることは、すなわち貴族連中が皆感じること……総領たる宗盛兄上が退かれたなら、次にその座に押し込められるのは、誰だと思う?」
 低く抑えられ、しかし止まない哄笑が夜闇を震わせる。宗盛は、清盛と時子の間に生まれた長男だと聞いている。他の妻との間には宗盛よりも年上の男児がいたそうだが、ことごとく病死したとも聞いている。そして、妻の地位と年功序列こそが家督の基盤となることを鑑みた上で、宗盛の次点となる地位にあるのは、を抱えて嗤い続ける男に他ならない。
「俺は、武門平家はいまだ健在なり、と、それを広く見せ付けねばならん。我らは公達である以前にもののふ。武門としての衰えを看破されれば、一門は滅びへと追い立てられよう」
 嘯く声はただ静かだった。凪いで、薙いで、そしてすべてを切り捨てたかのような、冷厳な諦観。ひゅうっと息を呑み、は四肢を強張らせた。
「栄華が尽き、地位を失うに否やはないさ……永劫なぞ、存在せぬ」
 だがな、滅びを甘受するわけには、いかん。低く紡いで知盛はの肩口に額を押し付ける。顔が伏せられたため、一層くぐもった声が、静寂を憚るかのように小さく震える。
「俺は、俺のやり方で、一門を護ることしかできん」
 それは、いつになく気弱な、あるいは後悔に濡れた声だった。には、知盛が何を憂え、何に愁えているのかはわからない。ただ、凛と貫かれた決意だけは明白で、そしてそれを誤っていると思えないことだけは確か。
「それは、尊いことではありませんか?」
 だから、はそっと思いを紡ぐ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。