朔夜のうさぎは夢を見る

はじまりのおわり

 厳島は美しい場所だった。景観という意味でも、気の巡りという意味でも。
 海に、山に、そこかしこにひょこひょこと顔を出す神々の助けも得ながら、は知盛の言うところの“器”を得るための修練に打ち込んだ。それは禊であったり潔斎であったり、時には瞑想やら祝詞を延々とあげることやらも指示されたが、そうして日を重ねるにつれて、は自分がいかに強大な力を、いかにあやふやなまま身のうちに宿していたのかを思い知った。
 かつて、寺で住職に学んだことが半端だったとは思わない。神に対峙し、己の力の方向性を自覚したその感覚が誤っていたとも思わない。ただ、圧倒的に不足していたのだ。
 感覚が研ぎ澄まされ、器が深められていくことを感じられるようになったのは、修練をはじめて一月が過ぎた頃。そうして思い知った力の強大さに、怯える心を導き、神の加護を恐れる必要はないと諭されたのが続く一月。力を貸し与えられた意味と、その己が歴史の中心を担っているだろう人物と関わりを持ったことの意味を考え直したのが、さらに一月。
 色々と理屈を捏ね回して思索を重ねた結果、は最初の決意に帰り着き、そしてそれで終わった。矛盾も、理不尽も、罪も罰も道徳も。考えるべきと思い、思いを馳せ続けたが、心ばかりは裏切れない。ならばせめて、曲げずに道を貫こうと、それが結論だった。
 傍にいたいと思った。支えたいと思った。美しい、けれど切ない瞳だと感じた。懐に招き入れられた。枕にされ、鞘と呼ばれた。存在を預けると、そう言ってくれた、の生きる場所にして還る人。
 どうしようもないと軽く自嘲の笑みを浮かべてもみたが、それさえ仕方がないと感じてしまうのだから、それが自分の根源なのだろうと思うことにした。何度となく突き放されそうになり、そのたびに言い返して、縁を繋いだ。だからきっと、あの存在を見失うことが、自分にとっては世界への絶望なのだ。


 が離れている間に、都は再び京へと移されていた。福原を発つ前、大規模な軍勢を組織すると噂されていた頼朝追討軍は、富士川にて大敗を喫したと聞く。それからさほど間を置かずに東国へ向かったという知盛が、次々と源氏勢を破り、けれど体調を崩して重衡と入れ替わりに京に戻されたとも聞いた。そしてつい先日の南都蜂起の報には、鎮圧というよりも鎮静の目的で立てられたという平宗盛を筆頭とする使節団が僧兵達に襲われ、大怪我をして戻ってきたという凶報が続いた。
「それによる人心の荒廃、だけではなさそうだけど」
 馬上で小さく一人ごち、はどこか荒んだ感のある五条大路をゆっくりと進む。
 動きやすさを重視した結果、最初に知盛に指示されたとおりの水干姿に近い装いへと落ち着いたのは、むべなるかなというもの。徒歩にて道を行くならともかく、は移動手段に騎馬を用いることができる。馬に跨るのに、いわゆる女性の旅の装い、というものはことごとく向いていない。
 女の一人旅は無謀だと散々に諭す厳島の巫女を説得できたのは、あの日、の荷物に紛れて無造作に置き去りにされていた、奉納舞で身につけていた知盛の狩衣があったからだった。衣服にはあまり頓着をしない主を知っていればこそ、ありがたく借り受けて刀を佩いてしまえば、若武者姿に見えないこともない。顔を隠せば大丈夫だろうと、試しに衣を被って近隣の市に出たところで男扱いを受けたのをみて、大袈裟に嘆きながらも折れてくれたのは、知盛の人となりが知れていたからだとも思っている。
 あの主にしてこの女房あり、とでも思われているのだろう。長く邸を空けるに際し、知盛は快癒祈願に加えて出向いた先の厳島でが床付いた、との言い訳を使ったらしい。次々に舞い込む見舞いの文の攻勢の中、一切の連絡を取ろうともしない姿勢に少なからぬ寂寥を抱き、図らずも置き土産となった狩衣を返しにいくのだと、それを心の支えにしていたことはだけの秘密である。


 懐かしき六波羅は、どこか鬱屈とした気配に覆われていた。気が澱んでいる、とでも言えばいいのか。京全体をしても、気が正常に巡っていないのは明らかだったが、六波羅の澱み具合は群を抜いている。修練の成果なのか、単に長く離れていたからこそ余計にそう感じるのか。眉間に皺が寄るのを感じながら、目指す邸の門が見えたところでは馬から飛び降りる。
 門を守る衛士は、見覚えのある顔のままだった。快勝したとはいえ、大規模な戦を越えたと聞いていたため、きっと誰かを悼まねばならないのだろうとは覚悟している。それでも、とりあえずは無事を喜べることからはじめられたことを素直に嬉しく思いながら、はそっと、訝しげに自分を注視する相手に近づき、被っていた衣をずらして会釈を送る。
「もし、家長殿か安芸殿に、胡蝶が戻りましたとお取り次ぎを願えませんでしょうか」
「胡蝶殿!? あ、いや、失礼をいたした」
 あからさまに不審者を見る目だった衛士が、さっと表情を変えてわたわたと頭を下げ返す。そんな格好だからわからなかったと、もごもごと続けられた言い分はもっともなので、としては苦笑を浮かべるほかない。きっと、安芸にしても家長にしても、見つかれば説教を免れ得ないだろう。知盛あたりなら、にやりと楽しげに笑ってくれそうだが。
「近くお戻りになられることは聞き及んでおりました。さ、中へと入られよ」
「ありがとうございます」
「馬は預かりますので、暫しお待ちを。案内に人を呼びますゆえ」
 と、そこまで衛士が言ったところで、はゆらりと近づく気配に気づいて首をめぐらせる。
「必要ない」
「知盛様!」
 答えたのは、邸の主たる青年。いざ器を整えてみれば、いったいどれほどこの主が強大な霊力を宿し、かつそれを平らかに保っているかが嫌というほど知れる。澱んだ京の中でも、いくつか見受けられた清浄な気に満たされた空間のひとつは、この邸。そして、それを維持している術者でもある知盛は、鬱屈と濁る空気の中で、目が覚めるほど鮮やかな陽の気に満ちて佇んでいる。


 参内帰りなのだろう。衣冠束帯も艶やかに、どうせまた気まぐれに「歩いて帰る」などと言って牛飼い童を困らせたのだろう風情で、知盛はじっとを見やっている。
「ただいま戻りましてございます」
 ゆるりと腰を折り、その場で適う限りの礼儀を尽くして帰還の挨拶を述べたのは、自覚と覚悟を再認識するためと、実のところ、半ば賭けだった。帰ってきたのだと、また傍に置いて欲しいのだと。そう、遠まわしに願い、是非を問う、賭け。頭を下げたまま言葉を待つの頭上に、力強い視線が降り注ぎ、そしてふいと和らげられたのが感じられる。
「……胡蝶は、やはり夢のうちのものかとも思ったが」
 声はやわらかく、耳慣れたからかい交じりのものだった。久しぶりに仕掛けられた言葉遊びに、は顔を上げて鮮やかに笑う。
「夢にも現にも、許されるならば、この身は知盛殿の許に」
「なれば、まずは替えの衣の用意を頼むとしようか」
 さらりと笑い返してついてくるよう言い放ち、知盛は黙って成り行きを見守っていた衛士に白馬の世話を申し付ける。半歩遅れて背後を歩むに、そして周囲に話が聞かれないような位置に来てからちらと視線を流し、一笑。
「随分と、化けたものだな。……さながら、蛹から蝶へ、ということか?」
 の器の未熟さを見抜いていた主だ。気を整え、力を行使するに足る器へと成長できたこともまた、正しく見抜いたのだろう。満足げに笑う気配は、同時にどれほど成長したのかと見定める期待に濡れている。
「次の戦と、そうお約束しましたのに、遅くなってしまいましたことをお詫び申し上げます」
「構わんさ……。お前は戻ってきた。俺の期待を裏切らず、俺の信を裏切らずに、な」
 辿り着いた南面の階を上る主の沓を揃え、自分もまた草履を揃えて続きながら、はほっと息を吐き出す。戻る、と。意識して使ったというわけではないだろうが、知盛にそう表してもらえたことに、安堵したのだ。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。