朔夜のうさぎは夢を見る

きばをとげ

 一体どんな触れ込みでこの随伴の武士達がのことを説明されていたかは知らないが、手回しの良さも扱いの丁重さも、陣における月天将のそれに勝るとも劣らない。薄々感じていることではあったが、もしや正体を隠す気など微塵もないのではと、は小さく礼の言葉と笑みを返してから、素知らぬ風情で馬を駆る知盛の背中をじっとりと睨むのだ。
 しばし馬を走らせれば、遠く見えていた祠との距離はあっという間に縮んだ。水場を近くに見つけていたらしい部下に馬を預け、知盛は先に紐解かれていた荷物から水筒を受け取って喉を潤している。その向こうから、同じく水筒と小さな紙包みを持った先の男が戻ってくるのが見える。
「こちらにございます」
「ありがとうございます」
 出陣の経験があるとはいえ、長く馬を駆ることへの疲れは隠せない。手際よく用意されていた簡単な敷布の上、知盛の隣に腰を下ろしていたは、差し出されたそれらを受け取りながら出来る限り丁寧に頭を下げて応じた。だが、それを受けた男はひどく慌てた様子で膝を折っている。
「もったいのうございます。お顔をお上げください」
 声の切迫具合が半端ではないことを聞き取り、素直に顔を上げたの目の前で、頭を下げた男は可哀想なぐらい蒼褪めてちらちらと横目に知盛の様子をうかがっていた。兵達の間に浸透しているという“月天将”の名の意味に少しだけ思いを馳せながら、は無遠慮に伸びてきた指が包みを取り上げるのを見送り、目の前の男に「そんなことはありません」と返す。
「お気遣いに対して感謝することに、いったい何の違いがありましょう。ありがとうございます。大切にいただきます」
「……下がれ。物見が戻り次第発つ。それまで、お前も休んでおけ」
「はっ」
 身分階級がはきと分かれている世において、それを取り払った言動は基本的に周囲を困らせるのだと知った。ゆえ、はいまだ違和感の抜けきらない『傅かれる』立場に甘んじながら、しかし伝えるべきことを伝えて今一度笑う。邸の主つきの女房という立場は、傅き、傅かれる双方に対して、それなり以上の経験をに与えているのだ。
 の言葉に加えて降ってきた知盛の言に、主の機嫌を損ねていないことを知り、同時に行動の指針を見出したのだろう。短くはきと答え、男は残されていた馬を連れて場を後にする。


 見張りのために残る郎党は、少し離れた場所に立っている。自分と主だけという、身に馴染んだ空間に久しぶりに身を沈めた気がして、は無意識のうちに溜まりこんでいた息を大きく吐き出してから与えられた水筒へと口をつけた。多少ぬるくはなっていたが、渇いていた喉にその潤いはありがたい。ほう、と、今度は満悦の吐息をついたところで、愉しげに自分を見やる視線に気づいては首を巡らせた。
「何か?」
「……いや。随分と、慕われている様子だと思って、な」
 言って返されたのは、中身をひとつその指にさらわれた干し桃の包み。気のない様子で飲み込んでから知盛は「食わんのか」と問うてきた。
「疲れには甘味が効くと、お前が諭したゆえの、家長の気遣いだろうよ」
「足手纏いにはならないよう、との遠まわしの忠言に聞こえます」
「それもあろうが、純粋に、気遣いでもあろう。あまり、穿ってやるな」
 くつくつと笑いながら伸びた指先が、の手の中に納まった包みからもうひとつ桃を摘み上げる。酒を好む以外は食べ物の好みなどないように見えた主は、もしかしたら甘党なのかもしれない。だとしたら、今度は酒の肴に干した水菓子の類を供してもみるかと考える口に、むに、と何かが押し込まれる。
「……ッ!?」
「噛め」
 慌てて手元から目を上げ、伸びる白い指先を辿って口を開こうとしたに、楽しげに笑んだ声がそう有無を言わさず命じた。指摘はもっともであり、ここで口を開いては中身を零してしまうだろう。噛むごとに口内に広がる素朴な甘みに素直に浸りながら、しかし飲み込んでからの抗議は忘れない。
「何のおつもりです」
「俺に遠慮しているのかと、そう思ったゆえな?」
 食わせてやれば、食いやすくなるかと考えたのさ。言ってもうひとつ桃を摘んだ指は、今度はの目の前をわざとらしく通ってから知盛の口に運ばれる。


 もぐもぐと咀嚼し、そしてもうたくさんとばかりに指先を舐めてから再び水筒に口をつけ、知盛は背後の木にもたれかかってのんびりと空を見上げる。一連の流れるような動作をぼんやりと見送っていたを振り返り、笑う目許は実に楽しげ。
「なんだ。……姫君は、俺が手ずから食べさせて差し上げるのが、お望みか?」
「そんなことはありません!」
 慌てて目を逸らし、強く否定してから桃を摘み、その甘さに目を細める。時代性なのだろうが、この世界には味の濃いものがろくに存在しない。こと甘味ともなれば、手に入れるのも困難。給与とも少し違うのだろうが、時折自由にしていい小銭や金目のものが舞い込んできた際には、市に出かけて干した果物を探すのがの楽しみの一つだった。
 主の傍近くに控えるという立場上、何かと情報交換を含めて言葉を交わすことの多かった家長に、確かにいつだったかそう洩らした覚えはある。だが、まさかこんなところでその情報を活かされるとは思いもしなかった。意外さと純粋な喜びとで、頬はどんどん緩んでいく。
「それが、好きなのか?」
 食べ過ぎないよう心がけ、ゆっくりと口を動かしていれば、ふと隣から問う声がかかる。口の中身を飲み込んで振り返って肯定を返すものの、じっと、うかがうような観察するような、静かな視線は外されない。
「女子供は、基本的に甘味を好むものでしょう?」
 いったい何を言いたいのか、何を読み取りたいのかがわからず、困惑したままは当たり障りのない方向へと話を繋いでみた。知盛とて、そのあたりは承知しているのだろう。甥である帝や妹である徳子に、ことあるごとにそういった贈り物を献上していることは知っているし、そのおこぼれに与ることもある。別段、珍しいこととも思わないのだが。


 黙って相手の反応を待つに、知盛は「違う」と短く言葉を切る。
「お前は、それが、好きなのか?」
「それ、と申しますと……桃が、と? まあ、好きか嫌いかと問われれば、確かに好きですね」
 というよりも、はこの時代で手に入る甘味に対して、あれこれとわがままを言う気は既に失せていた。当たり前の嗜好品として捉えていた茶葉や蜂蜜が貴重な薬の材料なのだと知った時点で、一種の悟りのようなものを開いている。よって、口に入れて甘いと感じさせてくれるものならば、基本的に何でもありがたいと思っているのだ。
 答を聞いてから何ごとかを考え込んでいるらしい知盛を前に、随分謙虚になったものだと結論付けた自分の思考から帰ってきたは、きょとんと小首を傾げる。
「お嫌いですか?」
 平気な顔をして食べていたが、もしやそれを好むの嗜好に純粋に疑問を覚えているのかもしれない。変なところで素直というか、素朴な一面を覗かせる知盛は、にとっては予測しがたい反応の宝庫である。あらかた互いの価値観やらに対する相互理解は進んだと感じていたのだが、まだ勘違いや思い込みは残っていて、時に新鮮な驚きを齎すのだ。
「嫌いというわけではないが」
 そも、このようなもの、はじめて食した。そう続けられ、は久しぶりに知盛が雲上人と呼ばれる人種であることを思い出す。が市で手軽に手に入れられるような類の嗜好品は、安っぽすぎて口に入る機会もなかったということだろう。それは確かに、一種のカルチャーショックだったかもしれないと考えるに、知盛は淡々と続ける。
「お前がかようなものを好むなど、知らなかった」
「それは、まあ。これまで、あえてお伝えしてもいませんでしたし」
 伝える必要もなかったし、伝えるような場面にも遭遇しなかった。それだけのことなのだが、どうやら知盛はそれが気に喰わないらしい。むっと眉間に皺を寄せ、不機嫌な表情で「次からは教えろ」とのたまう。
「好むもの、厭うもの……お前を、もっと俺に知らせろ」
 憮然と言い切り、そしておもむろに摘み上げた桃をの口に押し込んでからその指をちろりと舐め、知盛は同じくの膝に乗っていた水筒を取って腰を上げる。
「じき、物見も戻るだろう。今宵は野営かもしれん。今のうちに、少しでも休んでおけ」
 そのままさっさと歩き出した知盛は、見張りに立っていた部下に一、二言かけてから馬を連れた面々がやってくる方へと去っていく。言われた言葉、見せられた行動に今さらのように赤面したは、見つめていては思い出してさらに熱を煽るその背中から慌てて目を逸らし、口を動かすことに集中することにした。

Fin.

back --- next

back to 遥かなる時空の中で index
http://crescent.mistymoon.michikusa.jp/
いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。