朔夜のうさぎは夢を見る

きばをとげ

 野営だったり通りがかった集落で宿を求めたり、休憩を最低限に道を急ぎ、やがて一行が辿り着いたのは海の青に朱塗りの眩い鳥居を持つ社。ぽかんと見やるの視線を無視して、手馴れた様子で舎人の案内を受けた知盛は、部下と馬を社の一角に残し、だけを伴って奥へと足を進める。
 長い廻廊をものも言わずに踏破し、は一人の女に引き合わされた。
「ようこそおいでくださいました」
「要請にお応えいただけたこと、心より感謝申し上げる」
 言って深々と額づく女は、安芸よりも少し若いぐらいだろうか。端的ながらもどことなく丁寧な言葉を選んで知盛が接しているあたり、重い立場の人間なのかもしれない。装いから察せるのは、彼女が巫女であろうということのみだが。
「して、そちらの娘御が、件の巫であられると?」
 挨拶の口上を聞き流していたは、ふと向けられた視線に慌てて頭を下げた。この手の反応は、既に身に沁みている。後頭部に刺さる深い視線を感じながら、ひたすら主の指示を待つのみである。
「俺には細かなことまではわからないが、力の御し方は、その道の方に乞うべきと思った。……こうしてはるばる厳島を頼んだという事情、察していただければありがたい」
「言われるまでもございません。それほどの信を置いていただけましたこと、まこと、光栄の極みにございます」
「父上を含め、誰にも明かしていただいては困る」
「承知しております」
 ぽんぽんと頭上を飛び交う言葉に目を見開き、それでもは姿勢を崩さない。穏やかな承諾の声が、ふと深みを増して降り注ぐ視線へと取って代わられる。
「我が身もまた、仮にも巫。神域の内にあるからでしょうか。秘められ、隠された力がよくよく感じられます」
 顔を上げるように、との指示に応え、は視線を持ち上げる。知盛の背中を越え、真っ直ぐに見据えてくる双眸は、声音と同様にとても深いものだった。


 名を、と。促されては唇を震わせる。
と申します」
「良い名ですね。そして、良い声です。名を明かすことの意味を、知らずともわかっている、そういう音をしています」
 見込みのある娘御ですね。そう知盛に笑いかけて、女はふっと表情を引き締めた。
「なせることはさほど多くもございませんが、なせる限りをなしましょう」
「お願い申し上げる」
 言って頭を下げた知盛に追従すれば、そのまま躊躇いもなく腰を上げる気配があり、が顔を上げたその目の前で蘇芳の狩衣が翻る。
「お前はこのまま、巫女殿の指示に従え」
 短く命じられた言葉に否とも応とも答えるいとまを与えず、知盛は唖然としているを置いてさっさと退出してしまった。


 思わず上体を捻って主の背中が消えるのを見送ってしまったに、やわらかな苦笑に濡れた声がかけられる。
「かように心細げなご様子をみせられては、胸が痛むと申すもの」
「……申し訳ありません」
 慌てて頭を下げなおすものの、否定はできない。目的地かと問うた時には違うような物言いだったくせに、先ほど主はこの場をはきと厳島と言っていた。おまけに、どうやら会話の内容からして事前にこの社に身を預けられることが決定していたらしいが、はそんなこと、まったくの初耳である。
「顔をお上げください。まるで事情を知らされていらっしゃらないのですか?」
「恥ずかしながら、こちらに赴くことさえも知らされておりませんでしたゆえに」
 まあ、と。驚きの声を上げてから、女はそっと微笑んだ。
「それは、よほど機密を徹底なさりたかったのでございましょう」
 そして、つい先ほど知盛に向けたのと同じ、厳しく厳かな表情を浮かべての瞳を覗き込む。
「私が請け負いましたのは、身の内の力を引き出し、行使するための器を整えるための禊にございます。身を清め、気を整え、あなたがご自身のお力を余すことなく感じ、知ることが出来るよう、お手伝いをいたしましょう」
 誰にも知らせずことを進めるため、平家に縁深きこの厳島をお選びくださったのでしょう。かほどの厳しい緘口令は、あなたの身を守るためのお気遣い。ついと微笑み、女は続ける。
「お父上たる入道様にもお知らせせぬとは、いかに父君といえ、あなたの力を利用される可能性を厭われたのでしょう。良い方に恵まれましたね」
「……はい」
 含みのない慈愛に満ちた笑みに、はようやく表情を緩めながら素直に頷いた。


 その日の夕刻、荷造りの際に追加を命じられた白の狩衣を纏って、知盛は社の奥にある舞台で奉納舞を献じていた。そのまま一泊し、翌朝には発つという主にいつものごとく寝酒の酌を命じられ、あてがわれた部屋を訪ねたは、ようやくことのあらましを知る機会を与えられる。
「では、わたしは名目上、上皇様の快癒祈願のために厳島を訪れている、ということになっているのですね」
「ああ」
 悪びれなく頷いた知盛だが、仮にも上皇を言い訳の材料に使う豪胆さは、さすがというか、恐れ知らずというか。確かに、徳子の夫であり今上帝たる言仁の父親である高倉上皇は、このところずっと床に臥しているという。にとってはあまりにも遠すぎて実感の湧かない話なのだが、知盛のような殿上人には、情勢を左右するという意味でも、栄華の保身という意味でも、実に重要な案件だろう。もっとも、臣下として主君の健やかなるを願うのは当然のことと、飄々と嘯かれてもまるで真実味がないというのが素直な感想だ。
「名目と、それだけでよろしいのですか?」
 は、知らぬ相手のためにそこまで熱心に祈れるほどの博愛主義者ではない。徳子を知っていればこそ良くなれば、とは思うが、いかんせん現実を見据える視点が邪魔をする。この、医療がひどく未発達な世界において病で床に臥すとは、十中八九死を意味している。祈ったところで、それがいかほどの効果を持つというのか。
 ところが、とは反対にその加持祈祷にこそ救いを見出すはずであるこの世界の住人たる知盛は、以上に現実的な思考を持っている。
「ではお前は、祈ったところで何とかなるとでも思っているのか?」
「それは、思いませんけど」
「ならば同じこと。問われた際に口裏を合わせられれば、それでいい」
「……承知いたしました」
 さばさばと言ってのける声に、迷いは微塵も感じられない。


 そういえば、体調を崩すたびに大人しく褥で寝込む主は、結局その場に一度とて加持祈祷のための僧侶や陰陽師を呼んだことがない。幼少時からの体質ゆえの慣れかとも思うが、先日の原因不明の高熱の折には、清盛らが己の屋敷に僧侶たちを招いて、知盛のための祈祷を行わせたと聞く。それもすべてはこの考え方ゆえなのかと、妙なところで納得を得ながら、は話を先に進める。
「いつまで、こちらにいればいいのでしょう?」
「知らん。お前が、己の力を扱えるだけの器を手に入れられるまで……か?」
 これまたあっさりと言いおいて、知盛は唖然と見やってくるの瞳ににたりと笑う。
「陰陽術だのに明るくない俺にさえ、お前の器が未熟であることがわかるんだ。いい機会だからな。しかと、修練を積めばいいさ」
 今度こそが正しく声を失ったのは、驚きや衝撃ではなく、呆れからだった。陰陽術に明るくないとは、よく言ったものだ。霊力に恵まれた己の体質を存分に利用すべしと、書を齧っていたことは重衡に聞いているし、ある程度までなら満遍なく術の類を行使できることを知っている。いつか、伝令代わりにと飛ばしていた式神の鷹は、本当に美しかった。
「今はまだ、ゆとりがあるからな……」
 憮然と回想に耽っていたは、だから、ぽつりと落とされた言葉にはっと息を呑んでいた。今はまだ、と。そこに籠められた意味を取れないほど、愚鈍ではありたくない。
 そもそも、こうして知盛が知行国の様子見にと西に足を延ばしたきっかけは、先日下されたばかりの頼朝追討の宣司である。乏しい歴史の知識においても、燦然と存在感を放つ名前がついに耳に届いた。ということは、辿る未来はいまだ不確定といえ、これからますます気を抜けない日々がやってくることは察せる。時流が平家に、徐々に徐々に影を齎していることは、にとて察せているのだ。
「器が脆弱ならば、力に呑まれて破綻もしよう。……それでは困ると、それは、お分かりいただけるかな?」
 なあ、鞘殿。からかうように、けれど、慈しむように。呼ぶ声は穏やかだった。まだゆとりのあるうちに、万全に己を整えておけと、それは未来の共有を許容するがゆえの命令。初めて使われた呼び名に、は己の許された立ち位置を改めて噛み締める。
「必ず、次の戦までには戻ります」
 姿勢を整え、不遜かとは思ったものの、真っ直ぐに深紫の瞳を見据えては誓った。
「ですから、その時にはまた、わたしにあなたを預けていただけませんか?」
 ふいと、内心の読めないひどく凪いだ瞳で見つめ返してから、知盛はゆるりと口の端を吊り上げて笑う。瞳の奥に、深く静かな闇色の焔を灯して、笑う。
「次にお前にまみえる時、今以上に俺を惹きつけることを、期待しているぜ?」
「――必ず」
 わかりにくい肯定を、再会を確約する言葉に過たず読み取り、は今度こそ深々と頭を下げて主の言葉を受け取った。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。