朔夜のうさぎは夢を見る

きばをとげ

 平家追討令旨による一戦が落ち着いてから息をつく間もなく、知盛は続けざまに与えられた清盛からの命によって、慌しく京を発っていった。向かう先は京より西に下った福原。家長をはじめ、腹心の部下を少数のみ連れての道行きの前、邸にて見送りに立ったに与えられたのは、「荷物をまとめておけ」というよくわからない言いつけだった。
 もっとも、よくわからなかったのはだけだったようで、いつでも言葉の足りない主の言いつけの内容を解説してもらうべく安芸の許をおとなえば、邸を移すのだとあっさり答が与えられる。きょとんと目を見開いて、それでも与えられた役目を忠実にこなすがことの背景を知ったのは、衣の類を一斉に畳んでは唐櫃に収める女房達のおしゃべりによってだった。


「帝や院も一緒に参られるということですか?」
「ええ、そうですよ」
「帝はまだお小さくていらっしゃるし、道中、きちんとお休みできるよう整えるのもまた臣下の務め」
「それにしても、本当に急なこと。まあ、相国様のお怒りになられるお気持ちも、わからんでもありませんけど」
「あれほどに尽くしていらっしゃるのに、追討令旨などと。まして、親王宣氏も受けていらっしゃらないのに親王位を騙ったのですもの。院のお怒りも深かったと聞いていますわ」
 いったいどこからこれだけの情報を集めてくるのか、というのがの正直な感想なのだが、口を動かす一方、手の動きは決して澱まない。それに、知らなかった情報を一気に収集できる利便性があり、はきっかけの一言以後は、ひたすら耳を傾けて状況整理に精を出すのみである。
 とりあえずわかったことは、今回の知盛の福原行きが、福原への遷都を前提とした行程調査と休憩所の準備を目的としているということと、福原遷都が、朝廷不信が募りに募った清盛による強行であるということだ。
 物が少ないように見えていた邸のどこにこれだけの物品がしまわれていたのかと、目を回しながら荷物を纏め、何とか引越し準備の体裁が整った頃。計ったかのように帰ってきた知盛の指示により、慣れない牛車に酔いに酔いながら、は海を臨む新都、福原へと一門と共に居を移した。


 福原に至ってより後も知盛はどうやら遷都後の政務に借り出されて忙しさと不機嫌さの絶頂にあるようだったが、も忙しさの絶頂具合は引越し準備の時と大差なかった。生活必需品から順に紐解き、邸内に配置してはその場所を頭に叩き込む。元々物覚えは悪い方ではないのだが、地図がうまく読めないのは生来のものだ。新しい邸の中で半ば迷子になりつつ、最短ルートを通れずに移動を繰り返すものだから、邸の構造は細かく把握できたものの、しばらくは移動に異常に時間がかかるという情けない原因によっての忙しさにも目を回すことになった。
 もっとも、それでも日々寝起きする邸である以上、慣れるのは時間の問題である。ようやく荷物の山が片付き、日々の生活が常のものと遜色ない程度に落ち着いた、遷都から半月ほど経ったある日の夜。前触れもなく、次の厄介事が降ってきた。


 遷都以後、庶務に忙殺される疲れを癒すことを優先したのか、夜の外出頻度があからさまに落ちた知盛に、寝入りばなから枕にされることが当たり前になっていたその夜。は、びりびりと肌を刺す殺気にふと目を覚ました。すぐには暗闇に慣れない視界の代わりに周囲の気配を探るものの、近くに不審な感触はない。いったい何の殺気を感じ取ったのかと、疑問を浮かべながら目線を上げた先には、夜闇にぼんやりと浮かぶ単の背中があった。
 剣を片手に神経を研ぎ澄ませている知盛がどうやら殺気の源だと察し、ついでにも気配を探る触手をもっと広げてみる。よくよく辿ってみれば、凪いだ風の向こうにざわめき。なるほど、これを察知して飛び起きたのかと納得すると同時に、気配に対する鋭敏な感性に感服する。いくら戦場ではないと気を抜いていたとはいえ、やはりもっと鍛えるべきか。そんなことをつらつらと考え、しかし口をつくのは現状の確認。
「賊でしょうか?」
「……さて。わざわざ出向くに足る相手、だといいが」
 声がぼやけている自覚はあったが、そのぐらいしか候補が思いつかない。わざわざ平家一門の邸に忍び込むとは、どれほど勇敢なのか、あるいは無謀なのか。返された声が笑いを含んでいるあたり、とりあえず、この夜中の闖入者が主の興を惹いたということだけは確かめられた。
 知盛がわざわざ出向くというなら、騒ぎはすぐにも収束するだろう。邪な気配ではないことまでを確認して伸ばしていた感覚の触手を散らし、ようやく働き出した思考回路の囁く「このままの姿勢は無礼である」という判断に従って身を起こすも、知盛にはまるで気にする様子がない。
 音もなく腰を上げてから簡単に寝衣の乱れを整え、衣桁から上掛けを羽織って外に出る準備を着々と進めている。
「寝ていろ。……今宵は、戻らんだろうさ」
 そして、足を踏み出す前に与えられたのはそんな言葉。つまりはついて来るなということか。腰を上げる前に釘を刺され、残されたに出来ることは見送ることだけ。
「承知いたしました。どうぞ、お気をつけて」
 褥の上に正座しなおし、三つ指をついて主を送り出す。振り返りもせず去っていった知盛の気配が愉しげに浮き立っていることを感じながら、珍客の不運さを少しだけ思い。は言われたとおり、大人しく衣を被りなおして再びの眠りへと落ちていった。


 今宵は戻らないとの予告はどうやらそのまま現実になったらしく、翌朝、目を覚ましたの隣に知盛の姿はなく、曹司を訪ねてもその姿はなかった。昨夜感じた気配の方角は清盛の邸であったし、ならば別に案じることもないかと、すぐさま思考を切り替えては一日の雑務に取り掛かる。
 そもそも、毎朝のように主の出仕を追い立てる女房など、聞いたこともない。きっとこれが正しい朝の過ごし方なのだろうと思う一方、目覚めて一番の攻防戦がないことにどことない物足りなさを覚えながら、平和な一日は幕を開ける。
 清盛の邸だから、という特に根拠のない理由付けはどうやらぴたりと当たったらしい。夕刻になってふらりと邸に戻ってきた知盛は、見覚えのない衣冠束帯に身を包んだ、完璧な参内仕様だった。恐らく、息子の性情を知り尽くしている時子あたりが古参の女房を遣わした結果だろう。
 飄々とした振る舞いの多い知盛ではあるが、それはわきまえるべき点や外してはならない点を見誤ることがないからこそ許されること。人間としてどう思うか、という色眼鏡も存分に入るようだが、被る猫は完璧。そして、これで存外、年長者への敬意や近親者への情は素直に深い。おまけに、すぐに体調を崩してはしょっちゅう床付いていた幼少期を知る者達へは、身分の差異なく一様に一定の気遣いをみせるきらいがある。安芸を筆頭とした古参の女房達に基本的に丁寧かつ従順な一面をみせて応じているのは、それらすべてを兼ね備える存在だからなのだろう。
 泊まったまま装束を完璧に用立てられ、そのまま参内させられた、というのが今回の顛末か。仏頂面で脱ぎ捨てられた衣を回収して畳みながら、は小さく含み笑う。
「昨夜の珍客は、いかがでした?」
 漏れた声を耳聡く聞きとがめたのだろう。ちらと視線を流される気配を感じ、言い訳も兼ねた誤魔化すための話題は既に選別済み。どんな顛末があったにせよ、不機嫌というよりはどちらかといえば上機嫌の部類に当てはまる主に、はその要因だろう出来事の顛末を問う。


 知盛の眼鏡に適う賊など、そうそう転がっていられても困る。よって、しっかり捕まえてくれたという答こそが望ましいのだが、知盛の答はの想定を大きく裏切る方向から与えられた。
「お前の同胞だったぞ」
 あっさりとそう言い放ち、几帳の向こうから戻ってきた知盛は、円座に腰を下ろして用意してあった提子から椀に水を注いでいる。普段ならば装束を畳み、片付け終えたの仕事なのだが、あまりの衝撃的な発言にしばし呆然となっていたは知盛の行動に追いつかない。ぱちぱちと目をしばたかせ、言われたことを脳裏で反芻しているらしい様子を小さく笑いながら観察し、知盛はゆったりと喉を潤す。
「“さんきゅ”などという礼の言葉、俺は知らん。お前の世界の言葉ではないのか?」
「さんきゅ……サンキュー! それを、昨夜の賊が!?」
 口の中で与えられた言葉を繰り返し、は慌てて知盛の傍へとにじり寄る。
「ああ。それに、見慣れぬ衣を纏っていた」
 裾の短く、袖の細く、金色の丸い装飾があしらわれて、と。篝火の中で見た衣の特徴を伝えるほどに、の瞳は大きく見開かれていく。
「さて……いかが、かな?」
「恐らく、おっしゃるとおりかと」
 瞳を覗き込むように問う知盛の目の前で、腰が抜けたのか、背筋をへたりと丸めながらは小さく呻くように答えた。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。