朔夜のうさぎは夢を見る

きばをとげ

 夜明けを待って始まった戦は、知盛の予告どおり、多勢に無勢ということもあって確かに平家側にゆとりのあるものだった。はじめは川を隔てての矢の射掛けあいのみというじれったさに歯噛みしたものの、知盛麾下のうち一人の兵が川を渡る策を提案し、それを知盛が許可したことによって流れは一気に平家側のものとなる。
 早駆けまでなら何とかものにしたものの、急な流れの川を騎乗したまま渡りきるだけの技術はない。自分は迂回組と共に別経路を回ろうと進言し、踵を返そうと手綱を引きかけたは、喧騒の中、決して張り上げられたわけでもないのに真っ直ぐに耳に届く声に呼び止められ、馬の脚を止める。
「何か?」
 既に先行の兵達は川を渡りきっており、次の一団はまさに知盛を待つばかり。あまり時間を取らせてはならないと、口早に用件を問い質すに、知盛はにたりと人を喰ったような笑みを返す。
「せっかくだ。名を、高めておこうじゃないか」
「え?」
 耳元で囁くように言われた言葉の意味を掴みあぐねている間に、知盛はの体を引いて自分の鞍の前に押し込み、主を失った騎馬の手綱を軽く引く。
「白陰は賢い馬だ。自力でついてこようよ……。家長!」
「はっ」
 独り言のような説明に続けて呼ばれたのは知盛の一の腹心であり乳兄弟である男。すぐさま返る声に満足そうに視線を流し、知盛は迂回組に同道するよう指示を出す。
「重衡もあちらを回っていよう。挟撃に持ち込むよう伝えろ」
「かしこまりました」
 短い指示に頷いて馬腹を蹴った家長に背を向け、既に抵抗を諦めて少しでも馬に負担がかからないよう姿勢を整えているをちらと笑ってから、知盛は己を待っていた兵達の許に馬を進める。
「さて、参ろうか。こちらには神の加護持つ戦乙女がおられる。加護を願う贄に、華々しき戦果を捧げようではないか」
 朗々と声を張れば、そこにいるのは凛々しくも勇壮なる若き将。勝利を確信させる己が総大将からの檄に強く声を上げて応えた兵達は、漲る士気をこれでもかというほどに高め、次々と川に馬を進める。


 危なげなく馬を繰って川を渡り終えた知盛は、やはり危なげなく自力でついてきていた白馬にが飛び移るのを見てから左手で刀を引き抜く。
「昨夜、言ったことを憶えているな?」
「無論」
 他の兵とはあからさまに違う意匠の鎧を纏った知盛が現れたことに気づいた敵兵達が一気に矢を射掛けてくる。降り注ぐ数々の矢を難なく刀で弾き落とし、歌うように問う知盛に、もまた同じように引き抜いた刀で応戦しながら答える。
「恐怖と躊躇いを抱えて、微塵の容赦もなく、すべてを薙ぎ払います。その上で、奪い、奪われ、喪い喪われたすべての命を悼んで祈ります」
 自己満足でしかありませんけれど。そう小さく嗤って、は愛馬の腹を蹴る。
「死にたくなければ退きなさい! 参ります!」
 凛と声を上げ、前列にいた歩兵を蹴り倒しながら細身の刀を縦横無尽に振るって仮面を纏う騎兵が戦端を拓く。宣言どおり、情け容赦など欠片もなく死の旋風を齎す姿に、味方の兵は歓声を、敵方の兵は悲鳴を上げる。
 与えた具足は、夜闇を思わせる、限りなく黒に近い蒼のもの。同じく与えた白馬の上で背筋を伸ばす色彩の対比が美しいことにそっと瞳を細め、そして知盛もまた己の愛馬を軍場の中心へと向ける。
「進め! 我らには軍神をも魅了する戦乙女がついている!! 勝利を捧げようではないか!!」
 膨れ上がらんばかりに高まる士気をさらに煽り、刀を振るって屍の道を敷く。
 圧倒的な兵数の差に加えて指揮官の技量の差、士気の差が加われば、戦の趨勢はすぐに決する。露払いといわんばかりの勢いで敵の只中に突っ込んでおきながら、自分が追いついてからは極力その死角に回りこんで敵を薙ぎ払う蒼黒の鎧にそっと口の端を吊り上げ、知盛は勝利を確信した軍場の喧騒に身を浸していった。


 圧倒的な武力を見せつけての勝利をもぎ取った知盛と重衡は、凱旋するや勝利を祝う宴によって清盛直々のねんごろな労いを受けたが、同じように高い武勲を挙げて労われる幾人もの郎党達や同席していた一門の者達は、その中にあってしかるべき人影がないことに皆首を傾げていた。
「時に、知盛」
「はい」
 酒がある程度進み、座が崩れてきた頃合になって、清盛は一人黙々と手酌で杯を重ねていた息子を呼び止める。かなりの量を飲んでいるはずなのにちっとも酔った様子などみせず、はきと言葉を返して姿勢を正した知盛は、黙って続きを待つばかり。
「お主、今回の陣には姫武者を連れていたと聞くが、どこの者だ?」
 ざわざわと捉えどころのない喧騒に満ちていた座が、この時ばかりはすっと潮が引くかのように沈黙に満たされていった。それは誰もが気にかけ、しかし相手が知盛であるというただそれだけの理由ゆえに問い質すことのできなかった噂の真相。好奇と関心の視線を山のように浴びながら、けれど知盛はまるで動じない。
 くつりと小さく笑声をこぼし、恭しく頭を下げてから紡がれるのは平家棟梁たる清盛にさえ真相を明かす気がないとの文言。
「申し訳ございませぬが、アレを表に出すわけには参りませぬ。ただ、決してこの私を裏切ることのない、尊き神の加護持つ戦乙女であると――それで、ご寛恕いただきとうございます」
 けろりと言い放ってから再度頭を下げ、沙汰を待つ姿は堂々としていてまるで悪びれた様子もない。これが一郎党の仕業ならば処断は免れ得ないが、知盛は清盛の息子であり、その知勇と共に広く知れ渡るのは、たとえ治天の君たる後白河院の前でさえ飄々と振舞ってみせる度胸と気紛れさ。何を考えているのかがわからないと言われるその反面、あまりにも傑出した才能と実力ゆえに、清盛や後白河院でさえその振る舞いを笑って容認するという噂は、事実であればこそ知盛の名をあらゆる意味で広く知らしめる。


 案の定というべきか、奇妙な緊張に包まれた場に落とされたのは、諦めたような、どこか苦笑を含んだ清盛の溜め息。
「どうせ、たとえ命じたところでのらりくらりとかわすくせに、よく言うわ」
「滅相もございません。父上のご下命とあらば、この知盛、従わぬ道理がございませぬ」
「だが、今宵この席に伴わなんだということは、そういうことであろう?」
「さほどの身分もなく、まして女の身にて軍場に立つような娘、御前に侍ることは畏れ多くて身が震えると泣きつかれまして」
 ぽんぽんと屁理屈の応酬を経てから「もう良い」との笑い混じりの声に顔を上げ、知盛もまたにやりと笑う。
「しかし、その働き、実に目覚しかったと聞く。よくよくこの清盛が労っていたと、しかと伝えよ」
「確かに」
 さらりと一礼を返し、その流れでいとまの口上を舌に載せた知盛に、ふと思い出した様子で清盛は許可を与えるついでに言葉を継ぐ。
「近く、遣いを命じようよ。いつでも発てるよう、抜かりなく整えておけ」
「……御意」
 それまでとはあからさまに色味の異なる言葉に、息を呑んだのは一体幾人だったか。先ほどとはまた別種の緊張に包まれた座の中で、淡々とした知盛の低い声音がひどくよく徹る。宴席には似つかわしくない緊迫感にひびが入ったのは、その知盛が退出する衣擦れの音が遠く夜闇に融けてからのことだった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。