朔夜のうさぎは夢を見る

きばをとげ

 覚悟は決めていた。既に幾人もの命を絶っているのだから、今さら綺麗事を言う気にもならなかった。それでも、完全に己の意思で己の腕を振るい、誰かの命を絶ったのは初めてのことだった。その現実に耐えかね、けれど逃げ出すことはできなくて。暗がりの上、仮面の下だから誰にも見えないだろうと、合戦が落ち着いた陣の隅で嗚咽を噛み殺すを人払いをした天幕に呼び出し、何も言わずに枕にしながら狸寝入りをしていたのは知盛だった。
 たった一戦とはいえ、その中での戦闘力と知盛による特別扱いを存分に見せ付けられた兵達は、事前に密かに通達のあった「大将の連れている戦乙女に詮索は無用」との言を、都合よく解釈したらしい。知盛の身の回りの雑用めいた仕事もついでに請け負っていることがさらに拍車をかけ、あっという間に“大将付きの小姓”であり“大将が認めた姫武者”との地位が確立されたのだ。
「活躍などと、畏れ多い」
「謙遜などなさいますな。初陣でいらっしゃると聞いています。それで知盛様にひけをとらず軍場を駆け抜けられたのですから、当然の誉れにございましょう」
 大口を叩いたくせに、と。そんな類の言葉を言われはしなかったが、呆れられても仕方のない醜態を曝した意識のあったとしては、一晩で何とか回復したものの、嗤われる己がいたたまれないことこの上ない。しかも、知盛以外にはそれが知られていない辺り、無言のうちに差し伸べられた配慮と庇護には恐れ入るばかりである。軽い自己嫌悪に駆られながら小さく否定の言葉を返すも、家長は笑ってそれを切り捨てるのみ。そうこうするうちに辿り着いた陣幕の前で馬を下りれば、駆け寄ってきた雑兵が恭しい手つきで三人の馬の手綱を引いていく。
「家長、お前も適当に休んでいろ。ここはコイツがいるから構わん」
「かしこまりました。何かございましたらお呼び立てください」
 そこでようやく口を開いた知盛に礼を返し、家長は暗闇の陣中へと踵を返す。それを見送ることもなく陣幕の布を掻き分けた知盛は、小さく振り返って佇んだままのを呼ぶ。


 布で周囲との間仕切りがしてあるという程度で、陣幕の中はさほど特別な仕様になっているわけでもない。灯された明かりの中、用意されていた水を呷って敷布の上に腰を落とし、知盛は肩を護る鎧を外している。
「お前は、外さんのか?」
 ちらと視線を投げかけられ、は首を横に振ってから無造作に地に落とされた鎧を拾う。
「いつ伝令が来るかもわかりませんから」
「俺の許可なくここに入り込む馬鹿などおらんさ……気になるなら、衣でも被っていればいい」
 そう断言して荷物の置かれた一角を視線で示されれば、には断る確たる理由もない。拾った鎧を手近な場所に纏め、言われたとおり、仮面を落として持参していた小袿を頭から被ると、同じ山から手拭いを取り出し、今度は鎧についた泥やら埃やらを拭う作業に入る。
 陣を離れている間に届けられていたらしい報告の類が纏められた雑紙をじっと読みふける気配を背中に感じながら、つくづく思うのは知盛の率いる軍の特異性である。
 この世界の常識さえままならないにとって、軍としての常識などわかろうはずもない。だが、端々まで行き渡る合理主義と実力主義に貫かれた知盛の軍の在り方が特殊であることはわかる。家柄の類が幅を利かせる局面が残るのはいたし方のない時代性なのだろうが、それにしても、という存在がこうもあっさり兵達に認められたのは、浸透している実力主義ゆえだということは明白だった。付き従ってみてはじめて知る知盛の軍才に、は敬服すると同時に不安を覚える。同一視できる根拠はない。だが、これほどの才を擁している平家を滅ぼす源氏とは、一体どれほどの軍なのか、と。
「恐くなったのか?」
 つらつらと物思いに耽りながら手を動かしていたは、ふと背中から投げかけられた問いに、一呼吸分の間をおいてから振り返る。


 問いを発した張本人は、いまだ視線を手許に落としていた。それを確認して、もまた視線を戻して口を開く。
「どうしてです?」
「泣いていたくせに泣き言を言わん。働きが足りぬかと言うくせに、讃えられれば謙遜ではなく否定する。……いい加減、昨夜の血の昂りも落ち着いたろう? 落ち着いて、初めて恐れを知るものもいる」
 声は静かで、責めるでもなく詰るでもなく、ただの真情を問うていた。だから、は素直に答える。
「恐怖は、常に抱いています。覚悟を決めることと、恐怖を忘れることは別です」
 そう、そうだ。人を殺した自分を生かすために、はその上に生きる己を容認した。その上で生きるのだからと、己に求める枷を決めた。逃げないと、受け入れると、譲らないと、貫くと。だが、そこに何の痛痒も感じないはずはなかった。そのことを、失念していたのだ。
「それを思い出して、恐くて、悔しくて、辛くて泣きました。そんな無様な姿を知盛殿に見られて、しかも周囲から隠していただいたのに、何を誇れとおっしゃいます」
 きっと、この先もずっと恐怖は拭いきれないだろう。むしろ、恐怖や躊躇いを一切感じなくなってはいけないだろうとは己を戒める。命の遣り取りにおける躊躇いは命取り。それは存分に思い知った。体が反射的に動くのは、軍場での乱戦を知る知盛に鍛えられた成果だろう。そのお陰でこうしてろくに手傷も負わずに生き延びているのだし、感謝をすれど悔いはなかった。軍場に出る以上、生き延びるために、傍にあると決めた主を、可能ならば護るために、躊躇いに蓋をして駆け抜ける。


 だが、誰かの命を奪う己に、躊躇いと恐怖を忘れてはいけないのだ。そして、それを顕してはいけない。仮にも知盛の隣を許されたは、兵達からすれば将の一人。将が動揺すれば、それを見る兵の同様に繋がり、敗走に繋がる。味方の命がより多く喪われる結果に、直結する。
 合戦の最中に自分の動きにつられて士気を上下させる兵を見て直観したその絡操を、恐らく知盛は深く理解している。だからこそ自覚のないままに落ち込み、嗚咽を噛み殺すことしかできなかったを人目から隠したのだろう。
 はたと思い至ってしまえば、それまでのいたたまれなさなどかわいらしいもの。唇を噛み、小袿を頭から落としていまだ背を向けたままの主に向き直って姿勢を正し、は静かに声を張った。
「二度と、あのような無様な姿は曝しません」
 たった一戦。知盛に言わせれば、の初陣にちょうどいい程度の、戦と呼ぶこともおこがましい程度のものなのかもしれない。けれど、はそこで思い知ることがあまりにも多かった。改めて問いかけられ、反芻して直面した己の内心を必死に受け入れ、それでもなおと許しを請う。どんな葛藤があろうと、傍にいるのだと、そう定めた決意に揺らぎはないから。
「昨夜は、大変申し訳ありませんでした。――ありがとうございました」
 深く頭を下げれば、暫しの間をおいてから後頭部に降る視線と鼻を鳴らす音が響く。
「自覚があるなら、とやかくは言わんが……。兵達の前では、決して俯くな。迷わず、すべてを薙ぎ払え」
 言って衣擦れの音が響き、の頤を無骨な、けれど白く繊細な指が掬い上げる。
「昨夜のお前は、いずれも美しかった。……あの、静かに燃え盛る蒼き焔のような殺気が、俺に向けられないのは、実に惜しまれる」
 じっとの蒼黒の双眸を覗き込む深紫の瞳には、何かに酔ったような熱が疼いていた。思わず息を呑んで肩を揺らすにすぅっと口の端を吊り上げ、しかし知盛は何かに気づいた様子で身を起こし、陣幕の外に視線を投げる。引き締められた気配に我に返り、その行動の意味を察したが小袿を拾い上げて頭から被るのと、幕の外から伝令の兵が声をかけるのはほぼ同時のことだった。

Fin.

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いらっしゃらないとは思いますが、無断転載はやめてください。