きばをとげ
一月ほどの猶予を置き、改めて清盛からの下命を請けて知盛は重衡と共に兵を率いて宇治へと向かった。紅と金を主軸に仕立て上げた知盛の鎧姿は勇壮であり、蒼と銀を主軸に据えて壮麗な鎧姿を披露する重衡と美しき対を成す。六波羅から発つ軍勢を沿道で見送る町人達はその姿にさすがは平家の、と口々に頷きあい、そして同時に異彩を放つひとつの騎兵に疑問符を浮かべていた。
知盛いわくの融通の利かない御仁が匿われているという園城寺を経て、馬脚が止まったのは宇治川のほとりでのことだった。先行していた兵からの伝令を受けてはいたものの、実際に目の当たりにすれば感慨はひとしお。
「……よくもまあ、やってくれる」
呆れと感心を微量ずつ混ぜた知盛の声は凪いでいたが、感想はも似たようなものだった。橋は見事にその板を落とされ、機能を失っている。
「今宵はもう動かんだろうよ。陣を整え、休むよう伝えろ」
「はっ!」
篝火だけでは視界が足りないだろうに、じっと、見透かすように川向を睨み据えてから知盛は控えていた伝令の兵にそう命じる。低く頭を下げ、あっという間に夜闇に紛れたその背中をちらと見流してから、は馬を進めて知盛の半歩後ろに並ぶ。
「開戦は、明朝ですか?」
「夜討ちを仕掛けてくるほどの気概も、腕もなかろうよ……。それがあれば、南都まで落ちていよう」
視線は前に固定したまま、淡々と語る知盛の声音に、およそ感情の色は何も浮かんでいなかった。強いて言うなら、憐れみだろうか。
「……時の潮の、これは端緒。ご老体は、穏便にことを治めることをお望みだったようだが……、はて。逆らいえぬ定めとは、あるものだな」
うっすらと、口の端が吊り上がるのをは視界の隅に捉える。付き従う兵を松明ごと陣へ戻してしまったため、今は星明りだけが頼りの視界。それをさらに狭めている己の顔を覆う仮面を剥ぎ取りたい衝動に駆られたが、いつどこで誰に見られているかもわからないからと、必死に自重する。
なんとも言いがたい沈黙を破ったのは、砂利を踏みしめる足音だった。あえて立てたと知れる唐突なそれに、振り返りもせず知盛が呟く。
「家長か」
「知盛様」
膝を折る気配と、耳慣れた声。が振り返った先には、知盛の乳兄弟が控えている。
「陣の用意、整いましてございます」
「重衡の軍はどうしている?」
「同じく、川べりにて陣を敷いたご様子。伝令を走らせてございます」
「戻り次第、俺の許へ寄越せ」
「はっ」
視線を向けないままにそこまでの会話を終わらせ、知盛は振り返りながら「戻るぞ」と呟いて手綱を引く。心得た様子で腰を上げた家長が少し離れた場所で待機していた己の馬に騎乗するのを見て、は知盛の後を追う。
「明日、川を渡れば乱戦となろう。……後れを、取るなよ?」
篝火を持って先導する家長の後に続きながら、落とされたのは独り言にも等しい言葉。しかし、これまでいくつもの戦を知盛と共に駆けてきた家長がそんな言葉を必要とするはずもない。
「園城寺での働きは、お眼鏡に適いませんでしたか?」
「いや……? だが、それ以上を期待すると、そういうことだ」
「善処します」
揶揄と本音の割合を正確に察して皮肉を返せば、愉悦の滲んだ声が返される。もっとも、だからといって実戦経験がよりも圧倒的に豊富な知盛の言は、いつだって聞き流せるほど軽いものではない。素直に引き下がって、見えていないと知っていながら、は目礼を返す。
常より知盛の一番近くに使える家長と、その家長からの交換条件ということで重衡には正体を明かしていたものの、仮面をつけて顔を隠し、ほとんど声も発さずに知盛の隣を歩くは、平家の兵からもいぶかしむ視線を一身に浴びての出陣であった。家長はさすがに、知盛と一緒に育てられた年季とも言うべきか、邸でのの鍛錬を目の当たりにしていた慣れと言うべきか。渋い顔をしたものの、の参戦に関して大声で否を唱えはしなかった。
しかし、やはり知盛のことを知り尽くしているとも言えよう。認める代わりに、と示された「このたびの挙兵、副将は重衡様です。ゆえ、重衡様のご了承を得てください」との条件には、知盛が非常に苦い顔をした。
付き合いの浅いにさえ容易に想像のついた重衡による猛反対は、微塵も裏切られなかったらしい。血相を変えて邸に乗り込み、膝と膝をつき合わせてこの世の終わりとでも言わんばかりの嘆きようで重衡に説得された折には心が揺らいだものだが、歴史を変えるかもしれないという覚悟を腹に据えたの決意は固い。ではせめて、と、見目で侮られてしまわないよう顔を隠すようにとの助言には、面白そうに遣り取りを眺めていた知盛の賛同もあり、は具足に追加しての戦装束を調えられるに至ったのである。
「……さすがに、兵たちはものわかりがいい」
家長に続いて陣の奥に張られた天幕へと馬を進める道すがら、思い思いの場所で休息を取る兵たちから向けられるのは畏怖と羨望、そして尊敬の眼差し。知盛も、家長も、部下から慕われる良い将であることは元から知っているだったが、そこに自分も並ぶとなると気恥ずかしい。
「先の園城寺でのご活躍には、目を瞠るものがございました。姫武者様と、敬う声が既にあちこちより聞こえております」
馬上で身を縮めるようにしてやり過ごすの耳に、知盛の言葉に応えたらしい家長の笑い含みの声が届く。その評を受けた知盛が喉で嗤う気配は、甘んじて受け流すのみなのだが。
Fin.