ゆめをわたりて
遅くなれば泊まるのもよかろうとは言われていたが、まさか既に寝室をあてがわれてそちらに引き上げたのか。あるいは一夜の慰みにと、またどこかの姫君の香を纏いに出向いたのか。いずれにせよ、主がいないのに一介の女房に過ぎない自分が宴席に長々と腰を落ち着けているわけにはいかない。慌てて視線を巡らせれば、その落ち着かない仕草に気づいたのか、御簾の外からやわらかな声がかかる。
「いかがなさいましたか、蓮華の君」
「頭の君様」
銀の髪も紫の瞳も同じなのに、声音と笑みがまるで異なる主の弟。御簾を隔ててしまえばろくに顔など見えていないはずなのに、慌てて頭を落とす前、確かに重衡はの瞳を見つめていた。
「そうかしこまらずに。どうかなさったのですか?」
「知盛殿のお姿が見えないように思いましたので、どうかなされたのかと思いまして」
「ああ、兄上ならば、酔いを醒ますと言って外に出られましたよ」
「そう、でしたか」
意外に早くその行方は知れたものの、酔い醒ましに出た先でどんな気紛れを起こすか知れないのが知盛である。ならば自分はどうすべきかと、眉根を寄せるの気配を読んだのだろう。くすくすと喉を鳴らし、重衡は「それと」と続ける。
「兄上がいらっしゃらない間、御身を預かる栄誉をいただきました。いつ戻られるとも知れませぬゆえ、お邸に戻られるなら牛車を用立てて差し上げるようにとのこと。ご存分に、この身をお使いください」
からかい混じりの口調はどこまでも穏やかだったが、あまやかな声音に酔わされた女房やら白拍子やらの視線が全身に突き刺さるようである。座興の一環だったのだろう楽の競い合いが一区切り付いていることを確認し、は改めて重衡に問いを向ける。
「先に戻れとの仰せだったのですね?」
「そのように、私は解釈いたしました」
言い回しは気にかかったものの、それが主からの言伝だというならば、そのとおりにするのが最善の策だろう。深く額づいて伝言への礼を告げ、そしては素直に厚意を受け取ることに決める。
「では、恐れながらこれにておいとまさせていただきたく存じます」
「ええ、わかりました。少々お待ちください。今、遣いを走らせますからね」
主の実弟に牛車の手配をさせるなど、本来ならばあるまじきことである。しかしには他に術がない。突き刺さる嫉妬と同情の視線を同じほどに浴びながら、できるのはただ顔を伏せ、一刻も早く場を立ち去る体裁が整うのを待つことだけである。
見送りに立とうと言い出す重衡に丁重かつきっぱりと遠慮の意を伝え、は一人で牛車に揺られる。準備のいいことに、知盛は往路に使った牛車を残した上で、牛飼い童に復路はひとりになるかもしれない旨を言い含めておいたらしい。ありがたい気配りが、疲れ切った四肢に沁みる。
気が抜けたのと、気疲れが溜まったのと。決して乗り心地が良いとは感じられない振動に眠気を誘われながら、たった一晩であっという間に密度を高めた情報をゆるゆるとふるいにかける。主の兄弟の名に覚えはなかった。ひっかかったのは敦盛というその名だけ。把握できた限りの家系図を脳裏に浮かべても、混線がひどくてはっきりしない。
じりじりと胸を噛む焦燥を押し殺し、はただ、どうか違っていてくれと願う。
彼らが平家一門だったとしても、壇ノ浦への道を辿らなければそれでいい。いたるところが似通っていて、いたるところが異なっているこの世界だ。歴史が同じとは限らない。それは、気休めのようであり救いのようであり、が一体どれほど主やその周りに心を傾けてしまったかの証左であった。
物語なら、歴史書なら、それはたった一文で終えられる。戦の事実を示すのに必要なのは、年号と、季節と、関わった勢力と、その結末だけ。その裏にある愛憎劇など、関係はない。どんな思惑があって、どんな悲願があって、どんな人間模様があったかなど。そして、は今、まさにその記されることのないすべての真っ只中にあり、そこにこそ感情を揺らしているのだ。
到着を知らせる牛飼い童の声を受けて慎重に地面へと降り立ち、そのまま戻ってくれるようにと告げる。邸には、主の帰宅を出迎えたような痕跡はない。ならばきっと、今宵も遅くに戻るか、泊まってくるかのどちらかだろう。
埒の明かない思索を無理矢理に振り払い、家人が寝静まった邸の濡れ縁をなるべく気配を殺して渡る。悩んでも仕方のないことを悩むぐらいなら、さっさと自室に戻って装いを解き、褥に潜り込むに限る。明日も早いのだし、今宵は慣れない席で気疲れが深いし。そう自身に言い聞かせて角を曲がったところで、しかし、は目に飛び込んできた柱を背に座り込んでいる影に、安堵とも呆れともつかない溜め息を禁じえなかった。
どうせ気づかれるのだろうと踏んで、ことさら気配を殺すこともなく歩み寄ったものの、珍しくも影は深く眠り込んでいるらしい。深く、緩やかに繰り返される呼吸は穏やかだが、だからといって放置しておけるはずもない。そっと隣に膝をつき、まずはとばかりに肩を揺する。
「知盛殿、起きてください」
小さく、しかし確実に揺すっているのに、主はまるで反応を示さない。いったいいつの間に戻ってきたのかは知らないが、触れた直衣はひんやりと冷たい。随分と長いこと、こうして夜風に曝されていたのだろう。このままでは体調を崩してしまう。ふてぶてしいように見えて、知盛は存外体が弱いのだ。
「知盛殿、知盛殿!」
夜中も近いため、大声は出せない。しかし、気配に敏いらしく狸寝入り以外でこうもあからさまな無反応は示されたことがない。どうしたものかと途方に暮れながらも、できることはまずは目を覚ましてもらい、褥の内できちんと眠ってもらうことだけである。
呼ばい、揺すり、根気よくその作業を繰り返して、ようやく目を開けたと思ったら、今度は焦点の合わない瞳をゆるゆるとさまよわせるばかり。寝起きのいい主に珍しい寝ぼけ具合に、驚きを混ぜて声をかけても、どこか噛みあわない会話しか成立しない。
「このような場所で寝ていらしたら、お風邪を召されます。褥をご用意しますから、お部屋にお戻りください」
最優先事項は、夜風から身を守ること。そう思って強気に言い放ったというのに、知盛はやはりぼんやりと、論点のずれた言葉を返す。
「……風は、吹くもの、だろう?」
これは重症だと、勘違いに解説を入れながらも次の行動を示唆することで実力行使に移ろうとしたのに、けれど知盛の方がよりも一枚も二枚も上手なのである。
Fin.