朔夜のうさぎは夢を見る

ゆめをわたりて

 ふ、と。なにげなく巡らされた視線に縫いとめられ、は胸の隅に違和感を覚える。どうやら、主は寝ぼけるだけでは飽き足らず、酒を過ごしでもしたらしい。揺れる瞳は常の鋭さを覆うほどの頼りない光に満たされ、何かを確かめるようにを見つめている。
「――知らず周の夢に胡蝶と為れるか、胡蝶の夢に周と為れるか……か」
 落とされたのは、乾き、掠れた声。それはごくごく小さなものだったが、夜のしじまを縫っての耳に届くには十分だった。何の脈絡もなく朗じられた詩には素直に驚いたものの、しかしすぐに澄ました表情に戻して切り返す。
「俄然として覚むれば、則ち遽遽然として周なり、です」
 どうせ、寝ぼけているのかと揶揄したことへの遠まわしな反論なのだろう。もっとも、抗議と言うには情緒的過ぎる。武芸ばかりに興味があるのかと思いきや、知盛はこうして古典を引用しては言葉遊びを仕掛けるのが存外好きなのだ。負けじと言い返す声が笑いを孕んでしまったのは、その詩句が自分の通り名の元となったものだから。
 言葉遊びをする元気があるのならば、そう大したことではないのだろう。ほっとしつつ次はどうするのかと反応をうかがっていれば、切り返しに満足してもらえたのか、小さく溜め息混じりに何ごとかを呟いている。聞き取るにはあまりにも小さすぎたそれに小首を傾げても、言葉は繰り返されない。ただ、今度は指先を優しく伸べられる。


 頬をなぞる指先は思いのほか力なく、思いのほか熱かった。
「酔っておいでなのですか? それとも、熱を? ご気分はいかがです?」
 確かめるように辿り、なぞり、しかし今にも落ちてしまいそうな武骨な手をそっと支え、「失礼します」と断りながら余った手を知盛の額に差し伸べる。だが、熱の有無を判じるよりも先に知盛はの頬に添えていた手から力を抜き去り、ついでに背中からも力を抜いて額を肩へともたれかけさせてくる。
 巻き込まれて床に落ちた手には、やはり少し高めの体温を感じる。あまりにも常とかけ離れた行動に、何をどうすべきかがわからない。流されるまま額から外れてしまった手をしばらく持て余し、それからはそっと指先を知盛の肩からうなじへと滑らせた。
 唐突に急所に触れれば、反射的に振り払われかねない。それをわかっているがための処置だったのだが、染み付いた習慣は抜けないらしい。無意識にだろう強張った体に、指先が跳ねる。それでも相手も自覚があるらしく、長く息を吐くことで力を抜く様子に、熱を測りついでにそっと宥めるよう、赤子をあやすような調子で肩を軽く叩いてみる。
「熱がありますね。どれほどここにいらしたのです?」
「……さて、な」
 はぐらかす声は明らかに笑っていた。楽しそうに、満足そうに。
 そのまま小さくあくびを噛み殺す気配があり、据わりの良い場所を求めてうごめく頭を知る。どうやら本格的に眠り込むつもりらしいことを察し、は知盛の肩を心持ち強めに叩き、部屋に戻りましょうと繰り返した。
「これ以上体を冷やしては、熱が上がってしまいます。戻って、きちんとお休みください」
 言って立ち上がるのを促すように知盛の腕を引き、自らも腰を上げる。しかし、対する知盛は体の支えを失ってただ崩れ落ちるのみ。


 月明かりのみで視界が薄蒼いとはいえ、目を凝らせば知盛の顔色の悪さは明白だった。慌てて肩を支えて床に落とすことは避けたが、武人として鍛え上げられた知盛の体は決して軽くない。少しでも体を浮かせてもらえれば負担をかけずに動かせようと幾度か呼びかけてみるものの、知盛はもはや反応の一つも示さなかった。
 何がどうしてここまで体調を崩したのかはわからないが、自力での移動はままならないだろう。とにかく人手をと、叶う限り慎重に主を床に横たえて立ち上がりかけたの袖を、しかしそっと引く力がある。
「行く、な……よ」
「人を呼んでくるだけです。お放しください」
「いやだ」
 振り返り、床に膝をつきなおしての申し開きには頑是無い拒絶が返る。
 衣を握る力は脆弱なものだったが、だからこそ、は知盛の本気を知る。もう意識を保つのも辛いのだろう。それなのにこんなわがままを言い出すのだから、きっとそれは知盛の中では何がしかの明快な、そして譲れない根拠があってのことなのだ。
 諦めと了承を溜め息に載せ、今度こそきちんと腰を落としなおし、は主の頭を膝へと移す。
「わかりました。では、このままお眠りください。その代わり、後からどなたかに運んでいただきますけれど、文句はなしですからね?」
 返事を期待せず、ただ一応の弁明としてそう言い置いて、は一番上に纏っていた衣を脱いでせめてもの上掛け代わりに供す。今はとにかく、これ以上知盛に無理をさせないことこそが先決だ。
 宥めるように、あやすように。せめて穏やかに眠れるよう、指先で肩に拍を刻む。徐々に深くなる呼吸の向こうで、響く寝息の静けさは、もはや耳に馴染んだものだった。

Fin.

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